「小さな信仰が山を動かす」

礼拝日時:2026年2月1日(日)10:30~
説教題:「小さな信仰が山を動かす」
聖書:マタイによる福音書 第17章 14~21節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:「神はわがやぐら」「主よ、わがそばをば」

◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。

小さな信仰が山を動かす マタイ17:14-21

信仰というものを考えたいと思います。ある時、主イエスが村に戻ってくると、そこへ一人の男性が子どもを連れてイエスのところに駆け寄ってきました。子どもは、現代で言うならば癲癇のような病にかかっていたようで、しばしば激しい発作に襲われ、体がこわばり、震えて意識を失い、硬直状態で倒れてしまうのです。今は薬で治療ができますが、昔はまるで悪魔に取り憑かれたように何の対応も出来ませんでした。

イエスの留守の間に父親は弟子たちに癒してもらうように頼みましたが、彼らにはできませんでした。イエスは弟子たちに。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代だ。いつまで私があなた方と一緒に居られると思うのか。いつまで忍耐をもってあなたがたを教えなくてはならないのか。」 イエスは子どもを癒しましたが、実際、イエスには時間があまり残されていませんでした。間もなくイエスは捕らえられて殺されるのです。

しかし、それにしても、主イエスの言われることは厳しすぎるのではないでしょうか。弟子たちは、なぜ自分たちは癒せなかったのでしょうか尋ねました。自分たちに何が欠けていたのでしょう?信仰が薄いからだとイエスは言われました。信仰は生きているものであり、今、信仰を持っているか否かが問題になります。信仰というものはからし種(ゴマ粒)ほどのものであっても、山を動かすほどの力を発揮するのだと言われるのです。ですから、この時の弟子たちの信仰はゴマ粒ほどもないという事になるでしょう。弟子たちがもっと大きな信仰をもっていれば、子どもは癒されたのでしょうか?いいえ、ほんの小さな信仰でも持ってさえいたら、子どもの癒しどころか山をも動かすというのです。人生には私たちの前に立ちはだかる大きな山があることです。小さな信仰さえあれば、そびえたつ山さえ動くというのです。

大きな信仰とは何でしょう?ある方が、遮二無二に信じる信仰のことを言いました。一生懸命に信心するという表現が当たっているかもしれません。テレビで酷寒の中で滝にあたる修行を紹介していました。身が切れるような冷たい水に浴びながらの修行です。或いは、願い事のためのお百度参りをするという信仰の行為もあります。熱心に断食をして、徹夜で祈る。良い事です。1週間断食して祈ったけれども、まだ願いは叶わない。では、2週間に延長します。この事によって信仰を強くすることができるでしょうか。試練に耐えて信仰を守る。大事なことです。でも、それがイエスが言われた大きな信仰でしょうか。

信仰とは神への信頼です。神が持っているものを受け入れる器になることです。雨の日にバケツを出しておくと、雨が溜ります。大きければ大きいほど水を多く取ることができます。器の役割は口を広げて受け入れることです。信仰は独りよがりではありません。本当の信仰は人への愛と優しさが伴うものですから、信仰には多くの人が集まります。神の器は硬いガラスのようではなく、柔軟なゴムのような器だと思います。地面が凸凹であったら、それに合わせて形を変えて水を受け取るのです。私たちは世界の規模からみるならば本当に小さな存在です。信仰もゴマ粒の信仰です。けれどもそれが山を動かすのです。私たちの人生において、教会において神の力が働くことを信じることができます。学院教会は神から福音の宣教のために、この世界に遣わされています。ただ、人数を増やしたり、洗礼者を増やし自分の勢力を拡大するためではありません。砂漠に水をひくためです。荒れ地を緑地に変えるためです。人の人生が変えられていくためです。大きな山かもしれません。しかし、神は私たちの神への信頼というゴマ粒ほどの信仰をお用いになるのです。

東京聖書学院教会

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