礼拝日時:2026年2月15日(日)10:30~
説教題:「見出されたアブラハムの子」
聖書:ルカによる福音書 第19章 1~10節
説教:吉村 光 修養生
賛美:「おお御神をほめまつれ」「キリストは生きておられる」
◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。
「見出されたアブラハムの子」
人生における葛藤。私は今のまま生きていて良いのか。ザアカイという人は自分の生き方に葛藤を抱えていたようです。ザアカイとは「清い人」という意味です。ザアカイの両親は、彼に人々から慕われるような人になって欲しいと思っていたのでしょう。では、彼は大人になってどんな職業についたのでしょうか。彼は徴税人となりました。この徴税人は民衆からすれば悪の手先というような嫌われ者でした。徴税人の権利はイスラエルを支配していたローマから買うものであったからです。更にザアカイはその徴税人をまとめる頭でした。ザアカイは自分の名前とは真逆の、人々を苦しめ人々から嫌われる人生を歩んでいたのです。初めはザアカイにも徴税人の仲間がいたでしょう。しかし、頭という身分はその人を孤独にします。つまり、彼は罪の中で孤独となっていたのです。誰も心からザアカイを心配する人はおらず、彼も心から信頼できる人がいなかった。孤独をたくさん集めたお金で満たそうとしても、満たすことはできない。だからこそ、この自分の生き方を変えたいと思ったのです。しかし、自分では生き方を変えられませんでした。社会もそれを許さなかったのです。
そのような葛藤を抱えたザアカイの住む町エリコに、イエスさまがやってきました。今噂のイエスさま。病気の人を癒し、話す言葉には力があり、罪人に分け隔てなく接してくださるイエスさま。ザアカイは、そんなイエスの姿に心惹かれました。ただ、イエスさまを一目でも見ることは一筋縄ではなかったのです。「彼の背が低かったこと」と「群衆が遮っていた」からです。私たちとイエスさまを隔てているのは、自分の内側で抱え込んできた問題であったり、周りの人から聞こえてくる声であったりします。その声を要約するなら、罪深い者は救われないということです。罪を犯した者は罰を受ける。そのような考えは昔から現在に至るまで私たちの心の奥底にある常識です。その常識が私たちをイエスさまの救いから遠ざけているのです。
しかし、ザアカイはイエスさまが見えなくても諦めませんでした。彼は走って先回りし、自分でも登れるいちじく桑の木を見つけてそこに登りました。その木の下にイエスさまが来られました。聖書を読むと、ザアカイがイエスさまの行き先を予想したように読むことができますが、そうではなくてイエスさまが彼のところまでやって来たのです。イエスさまはザアカイを知っていました。だからこそ、彼の名前をしっかりと呼んで言葉をかけられたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」この一言が彼の人生を変えました。罪の中で孤独に震えている者に、この一言の与える大きさは計り知れません。
人は愛のある言葉の中で生きていく者です。私たちが今生きているのも、周りの人からの何気ない言葉や気遣いがあるからです。けれども、ザアカイにはそれがありませんでした。それも、その孤独が自らの罪が原因だと自覚していたのであれば、人は自分を責めるでしょう。こんな職業を選んでいなければ、私は孤独になることはなかった。清く、正しい人間であれば、こんな人生ではなかった。そう自分を責めてしまうのです。
イエスさまはそのような孤独のなかで苦しむ人に声をかけられます。そしてその中に入ってきてくださり、罪人を愛されるのです。どれほどの愛でしょう。どんなに大きな憐れみでしょうか。
私たちの本当の生き方はイエス・キリストによって与えられます。イエス・キリストの愛によって私たちの葛藤を抱えていた生き方は変わるのです。ザアカイは今まで自分のために集めていたお金を、周りの人々のためにお金を与える者になりました。彼はイエスさまに満たされて、イエスさまから自分に与えられた愛を今度は周りに与える者へと変えられたのです。
創世記12章で、神さまはアブラハムを祝福の基とされました。アブラハムは、神さまから受けた祝福を周りの人々に分け与える者とされたのです。同じように、ザアカイはアブラハムの子としての生き方、神さまの祝福を周りの人に与える生き方へと変えられました。
イエスさまは今日も生きておられ、私たちに愛を注いでいてくださいます。私たちの内には何もなくて大丈夫です。なぜなら、私たちの救い主が今日も私たちに声をかけてくださるのですから。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」
東京聖書学院教会