小林和夫牧師の説教の多くは、ラジオ放送(FEBC)を聴いたり、書物を読むことによって目にしたり耳にすることが出来ますので、ここでは「その時のメッセージ」と題してメディアに出難い教会独自の新年など節々のメッセージを掲載しています。
FEBCキリスト教ラジオ放送
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小林和夫師退任記念講演
「ウェスレー神学と情熱」(2003年5月19日/東京聖書学院チャペルにて)
※日本ホーリネス教団のサイトへのリンクです。
東京聖書学院教会 2006年元旦礼拝説教より
説教:小林和夫師
<中心テキスト: エレミヤ書31章3節>
主は遠くから彼に現れた。
私は限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、私は絶えずあなたに真実をつくしてきた。
神は私たちに新しい契約を与えてくださった。それはモーセに与えたような石に刻まれた律法ではなく、私たちの内側に刻まれた神を愛する心である。
エレミヤの新しい契約はイエスによって成就された。以前の古い契約は神によって律法が与えられ、もし人がその律法を守るならば神から祝福を受けることが出来る、という内容であった。だが、人はこれを守ることが出来ず、神から離れてしまった。
人間に神は新しい契約を与えた。それは、信じる者自身の心に刻まれるものである。それは、イエスが十字架にかかる前夜、パンとぶどう酒とをもって弟子たちに示された契約である。
今は希望を持ちにくい世の中である。私たちは「人生はこれで良い」という確信がもてない限り、希望は持てない。自分で確信できるものがないと希望は見出せないし、その生涯は根無し草で終わってしまう。その確かたるものを与えるものが神の真実である。
新しい契約の土台となるものは、私たち側にあるものではなく、神の側にある神の真実である。人間は神の真実を具体的な形として経験する。
1.真実によって召された(Tコリント1:9)
人間の真のつながりは、それぞれの真実によって成り立つ。私たちの間に距離があっても、その関係は保たれる。マルチン・ブーバーは人格との交わりの根源を「我と汝」(わたしとあなた)という言葉で現している。人間は神が真実な方であるから、神との交わりの中に入れられ、「我と汝」の関わりを持つことがゆるされるのである。 この真実がパウロを捉え、パウロは一生裏切られることはなかった。
私たちを神の方へ、あるいは教会へと導くのは神の真実である。神の真実こそ、人の心を教会へ導くのである。
2.神の真実によって備えられる逃れの道(Tコリント10:13)
試練を私たちは嫌う。だがクリスチャンの人生であっても試練は襲ってくる。だが、神の真実は試練の中にある私たちを放っておくものではなく、必ずそこに逃れの道を備えて下さるものである。
この逃れの道こそ、神が真実であるという証である。エレミヤの祖国は滅ぼされた。しかし、神の人に対する真実は消えることはなかった。
3.信仰の生涯を全うされる神の真実(Tテサロニケ5:23)
私たちの信仰でさえ、これを全うするのは私ではなく、神の真実である。
上野教会の故)桂山姉はその晩年、私たち若年の牧師たちの前でこう言った「イエス様は真実な方だから、この方から目を離してはいけない。私は生涯イエス様を信じることで恥を受けることはなかった。イエス様は守ってくださった。」
神の真実は、私たちを召しだし、逃れの道を与え、その生涯を全うされるのである。
<テキスト:マルコによる福音書 2章1〜12節>
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
(マルコによる福音書2章5節)
小林 和夫 師
新しい年を向えて新しい心構えで主の御前に集まっています。この年も御言葉によって導かれていきましょう。牧師としての私に語りかけられていますのは、先掲のように「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。」の句です。
信仰は本来的には、神と個人の関係であることはその通りであるわけですが、その私を神の恵みによってどのように捕らえるかが問題になってきます。信仰とは、神との関係という全く個人的なものでありながら、たんなる個人主義ではないと思うのです。
ここの箇所では、一人の中風を病める者に四人の友人達があらわした愛の実践と神への信仰が語られています。信仰は主体的なものでありますが、その主体性は個人的主体性でありつつも、教会的主体性とも言われるべきものだと思います。また、このように人々によって成長していくキリストの体である教会は、信仰共同体とも言われるべきものであります。神との関係と同時に、神がそこに与えてくれます隣人や出来事の中にも関係してくるものです。
イエスは、この四人の信仰を見て、一人の病者を癒されました。人は時として自分の信仰に不安を覚えるような事柄に出会い、自らの弱さを感じるものです。その時に、共同体の一員として、その弱れる家族・友人のために祈り、支えていくことをマルコは、「イエスは彼らの信仰を見て」という言葉であらわしました。
自分自身を見ても、私は自ら神を信じている者のようでありますが、どんなに多くの人に祈られ、支えられているかと思います。また、その祈り支えてくださる方々も、その共同体の多くの方々によって祈り支えられていることを思います。
この年、「イエスは彼らの信仰を見る」かたであることに期待と希望をおいて、他者のために祈り支えることの出来る教会にしていただきましょう。
「御心が地にも行われますように」 小林 和夫 師
(マタイによる福音章6章5〜15節)
山上の垂訓で、イエスは「主の祈り」を教えられた。二一世紀は、同時多発テロによって、歴史の新しい時代に入った。たった二機の飛行機により、何千人もの人の命が失われた。二〇世紀の神から離れた人間の文明がバベルの塔のように思える。神から離れ、科学文明を誇りとする人間を、神はどれほど悲しまれたか。
事件以来、私の心に、いつもこの祈りがある「御心が天で行われるとおりに、地でも行われますように」(10)。
御心とは何であるか。「神よ、あなたの御思いは、なんと尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう」(詩篇一三九17)。神の像の壊れた人間には、分からないと、詩人は語る。しかし、イエスはその生涯を通して神の御心を、私達に見せて下さった。天で父なる神と共に治めていたイエスは、ベツレヘムに生まれて、友なき者の友となった。たとえ話と奇跡で神の恵みの世界を示された。弱い者、傷ついた者、病める者が癒され、らい病のものに「私の心だきよくなれ」と言われた(マル一41)。
イエスに出会い、人々が神の恵みを経験したのである。ところが人間はどう受け止めたのか。「自分の民は彼を受け入れなかった」(ヨハ一11)。人の罪深さが心を頑なにして、御心を受け止める障害となっていたのである。
イエスは十字架で、この罪を除き、サタンに打撃を与えた。この恵により、ザアカイは不正をした分を四倍にして返し(ルカ一九8)。夫を何人も変えたサマリヤ女が、神の恵みを証するようになった(ヨハ四)。
御心を地に求めることは、私達がイエスのように生き、祈るように、変えられることである。十字架の前夜、ゲッセマネの園で、イエスは祈られた「父よこの杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の思いではなく御心がなるようにして下さい」(ルカ二二43)。十字架で罪の犠牲となり、御心がなされ、罪を除くことになったのである。さらに、イエスは復活して死を打ち破られた。
使徒パウロは神の御心は、全ての人が救われて、真理を悟るにいたることであると語る(第一テモテ二4)。
十字架で成し遂げられた救いを、受け止めていない人類に、私達は福音を宣べ伝えるのである。
再臨の時、救いが完成され、地にも御心がなされるようになる。それ以前も、イエスは天で執り成し、聖霊を注いで、神の恵みを先取りして、生きることができるのである。
「御心が地でもなされるように」と、祈り、この新しい一年を歩んでいこう。
東京聖書学院教会 2001年新年礼拝説教より
「キリストの臨在の確信と祈りの保証」 小林 和夫 師
(ヨハネによる福音章14章12〜21節)
「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでも共におらせて下さるであろう(16節)」
イエスがいつも共にいてくださることを知ることは幸いである。
21世紀は文化的に更に飛躍された時代となるであろう。ITによる文化的進歩、遺伝子研究による命の管理、宇宙大の視野での世界観、1つの文化圏へと向かうアジアなど、このような時代が来ることが予想されている。
先行き不透明であるが、このような進歩の時代で、人間が人間であることを忘れてはならない。
創造者である神の語りかけを聞く、被造者としての自己を知らなくてはならない。
人の心の欲しいままの進歩であるならば、人を蝕むことらなるであろう。倫理が必要な時代なのである。
ヨハネが福音書を書いた時代(一世紀終わり頃)も、先行き不透明な時代だった。
ヨハネによる福音書14-16章は、イエスの「最後の説話」と呼ばれる箇所である。恐れの中を歩んでいた弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じ、また私を信じなさい」(ヨハネによる福音書14章1節)と語り始め、「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝利している」(16章33節)と語り締めくくった。
この訓戒の中でイエスは「私は父に行く」(14章12節)、「私はお願いしよう」(16節)、天に帰ったら私の名による祈りが確答され、聖霊がおくられるように父に願うと言ったのである。
12月に祈りの中で「我、父に請わん」と言う御言葉が心に響いてきた。2001年は、この御言葉に立っていこう。
父は「別の助け主」を与えてくださるのである。
1、「臨在の約束の実現」
イエスがいないのに教会が始まった。イエスが父なる神の身元に行き(12節)、父に願い求め、聖霊がおくられて、教会が始まり成長したのである。
教会にはイエスの父なる神の臨在がある。神の聖霊によって一緒にいるのである。
また聖霊は私たちの内にいる(17節)。イエスは弟子の心に入れなかったが、聖霊によって心の内に入るのである。聖霊による神との生きた交わりが深められる必要がある。
イエスは「私はあなた方を捨てて孤児とはしない」(18節)と言われた。聖霊によって帰ってくる。「助け主」をおくってくださるのである。
「助け主」(パラクレートス)とは、「かたわらに呼び出された者」と言う意味であり、「弁護士、助け主、慰め主(イザヤ書40章1節)」である。
キルケゴールは、「人間とは単独者である」と言った。もともと人間は神の像に造られ、愛の交わりに生きる者であったが、罪に入り、孤独者になったのが人である。しかし、聖霊がこの私たちと共にいて下さるのである。
2、「祈りの応答の確約」
イエスは言われた「私が父のみもとに行くから、私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。」(14章13節)。
この御言葉が祈りの根拠である。年の初めに、この御言葉を、神の私たちへの「祈りの確約の小切手」として受け取ろう。
イエスは、私の名で父に祈る時、私よりも大きな業をなすと言われた(12節)。
今年2001年も、「我、父に請わん」「我、父に行かん」と、仰せ下さった主イエスの臨在を実感しつつ、信仰の祈りをもって歩んでいきましょう。
東京聖書学院教会 2000年新年礼拝説教より
「福音の種を信頼して」 小林 和夫 師
(マルコ4章26〜29節)
2000年の学院教会はこの御言葉に立って前進していきたい。イエスは神の国の譬えを語られた。種を蒔くとき、人が努力して蒔くのだが、努力によってではなく、むしろ、種の力によって実が結ばれるのである。人は種を信じて蒔くのである。また、神は良き土壌を備えていることを信じて種まきをするのである。神の国とは神の恵の支配である。心に神の支配がある時、私達の心は神の国となる。神の国はイエスの到来によって始まり、信じる者の内に成長し再臨の時に完成する。神の国は福音の種を蒔く時に必ず成長するのである。
一、 神の国への信頼を宣教(マルコ4章26〜29節)
私達、学院教会の群は今年は種まきの年として歩んでいきたい。種の力そのものに信頼して蒔くのである。蒔かれた種は夜昼、寝起きしている間に芽を出して育つが、どうしてそうなのか蒔いた人も知らない(27)。種とは福音である。福音の種の力が働き罪の赦しと永遠の命を保証するのである。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、全世界の人に救いを得させる神の力である(ローマ1章16節)。神が備えた土壌に信頼する。地はおのずから実を結ばせる(28)。J・ウェスレーは「どんな宗教、民族、文化の中でも、神の見えざる聖霊はすでに働いておられる」と聖霊の先行的恩寵を語った。神が宣教のため土壌を備えておられるのである。2000年は宣教の年としたい。種の力に信頼し、聖霊が働く土壌に信頼して進むのである。
二、宣教の実践としての神の国への参加(第Tコリント3章5〜9節)
私達は種を蒔くことによって宣教の働きに参加する。パウロは命をかけて福音を蒔いた。パウロとアポロは種を蒔いた、「しかし成長させて下さるのは神である(6)」。パウロは命がけで、種を蒔き、水を注いだ。パウロはこれがやがて全世界の救いになると信じたのである。旧約の民は具体的にこの事に取り組み、彼らは「涙をもって種を蒔く」ときに喜びをもって刈り取ることを知った(詩篇126篇5節)。パウロは言いました「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くても(第Uテモテ4章2節)」。その次に「あくまで寛容な心で」と言った(2)。他者と寛容な心(忍耐をもって、涙をもって)を持ち交わり、その交わりの内に神の命が伝わる。私達が砕かれ、悔い改め、涙をもって種を蒔くときに福音が伝わる、そして喜びをもって刈り取るのである。涙をもって、寛容な心で歩まれたのはイエスの姿である。与えるものが最も豊かであると身をもって語り、イエスは十字架に至るまで仕えられた。イエスは種を蒔
き続けたのである。私達はイエスの命をいただき種を蒔き続けよう。この一年間は宣教の年、そして、種まきの年となるように祈り、前進してゆこう。
東京聖書学院教会 99年新年礼拝説教より
「教会の依託と使命」
小林 和夫師
聖書箇所(ルカによる福音書10章25〜37節)
するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った。「先生、何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』とあります。」。彼に言われた、「あなたの答えは正しい。その通り行いなさい。そうすれば、いのちが得られる。」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、私の隣人とは誰のことですか」。イエスは答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物を剥ぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしていてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とブドウ酒とを注い
で包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用が余計にかかったら、帰りがけに、私が支払います』と言った。この三人のうち、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
新年礼拝説教から(要約)
イエス様は良きサマリヤ人の譬話を話されました。ある旅人が強盗に襲われました。祭司、レビ人は見て見ぬ振りをして行ってしまいました。ところがサマリヤ人が見て、介抱してくれて、宿屋に連れて来てくれました。あくる日、旅に出かける時に言ったのがこの言葉である。
「この人を見てやって下さい。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、私が支払います」(35節)
学院教会は、この御言葉をかかげて、1999年を進んでいきます。真の良きサマリヤ人であるイエス様が、教会(宿屋の主人に譬えられている)に、傷ついた、弱った人をたくしました。「この人を見てやってください」と語られるイエス様に応答して、隣人を愛する教会になろう。
一、 主の御旨と期待にかなうもの
「この人を見てやって下さい(35節)」という主の心に動かされて教会は進みます。これは博愛主義や、救済活動ということに留まりません。私達はイエス様の愛をいただいて、宣教を進めるのです。「もし愛がなければ(第一コリント13章1〜3節)」どんな事も無意味なのです。十字架にまでかかり私達を愛して下さったイエス様が、私達に「この隣人を介抱して欲しい」と語りかけておられるのです。
二、 隣人感覚を持つ宣教
聖書には、永遠の命を得る為には「神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛する(27)」事が必要だと書いてあります。ユダヤ人はサマリヤ人を非常に嫌っていました。にもかかわらず、このサマリヤ人はユダヤ人の隣人を助けました。実は、良きサマリヤ人はイエス様を意味するのです。隣人を「気の毒に思い(33節)」助けたのです。この語は原語では、「はらわたが痛む」という語です。宣教は深い憐れみの心をもってするのです。私達が良き隣人になることが大切なのです。
三、 神の支援と約束を信じる教会
この良きサマリヤ人はイエス様を意味しています。痛み倒れた者を宿屋の主人に託し、2デナリを渡し、足りない分は帰りに払うと言われました(35節)。宿屋の主人は私達(教会)である。神が支援者であり、教会に依託されたのであります。「手渡し(35)」は原語では、「投げつけて払う」という強い表現である。断る宿屋の主人のふところに押し入れるような表現である。そのように、神様は私達の働きの必要を支援して下さるのです。もし、足りないとしても、再臨の時に豊かに与えて下さるのです。
「この人を見てやって下さい」と言われる主の委託を教会の使命として受け止め、神と隣人を愛しましょう。主が必要を与えて下さると信じて、歩んで行きましょう。