「落胆しない信仰」

礼拝日時:2026年1月18日(日)10:30~
説教題:「落胆しない信仰」
聖書:ルカによる福音書18章1節~8節
説教:吉村 光 修養生
賛美:「力の主を」「慕いまつる主なるイエスよ」

今日の聖書箇所では、イエスさまが弟子たちに「絶えず祈るべき」だと教えていま
す。イエスさまがされた譬えには裁判官とやもめが出てきます。やもめとは夫に先立
たれることによって、経済的にも社会的立場においても弱さを抱えていた者でした。
どうやらこのやもめは、誰かから訴えを起こされていたらしいのです。ですから、自
分を訴える相手から私を裁判官に守ってほしいというのがやもめの求めでした。しか
し、この裁判官は不正な裁判官だったのです。この裁判官がどんな裁判官だったかと
いうと、「神を畏れず、人を人とも思わない」者でした。神を畏れないというのは、
全ての判断基準を自分の価値観でしていた者だということです。裁判官自身が法律で
あって、自分の思うままに裁判を行っていました。そして、人を人とも思わないとい
うことは、彼は自分以外の人間を「私がこれからも裁判官という職を失わないための
道具」としてしか見ていなかったのです。ですから彼にとって弱い立場のやもめは役
に立つことがない人であり、やもめの訴えを取り合いもしなかったのです。では、な
ぜこんな裁判官が職を失わなかったのでしょうか。それは世の中もこの裁判官をうま
く利用していたからでしょう。「あの裁判官は全く法律に従わない。いや待てよ、賄
賂でも握らせれば俺たちの思い通りに動いてくれるかもしれない!」。そんなふうに
権力を持つ者にとってはこの裁判官が法廷にいた方が都合が良かったのです。
 不正な裁判官が法廷に立つ町で、この弱い立場にあったやもめ。しかし、彼女の
とった行動に驚かされます。彼女は弱い立場であったのに、何回も何回も『相手を裁
いて、私を守ってください』と詰め寄って行ったのです。やもめの行動を不正な裁判
官はこう言っています。「でないと、ひっきりなしにやって来て、うるさくてしかた
がない」。聖書の元の言葉、ギリシャ語ではもっとすごい表現を使っています。それ
は「目の下を殴ってあざをつくる」という表現です。このやもめの勢いはうるさいど
ころではなく、「不正な裁判官の顔面を殴りつけて目の下にあざを作ってやる」と
いった勢いがあったのです。だからこそ、人を人とも思ってないような裁判官が考え
を変えたのです。このやもめは弱い立場の象徴です。立場の弱い者たちは「神を畏れ
ず、人を人とも思わない」世の中で声を上げていく。どこに助けがあるのか。そこに
助けがあるならばなりふり構わずそこに向かっていく。それは私たち教会の現実でも
あります。教会は神を愛し、人を愛する者たちの集まりとして集められました。正に
「神を畏れず、人を人とも思わない」世の中の逆を行く者たちです。だからこそ、私
たちはその叫びを今実際に上げているのかを今日のみことばから問われます。
 真の神さまは、私たちを心から愛し憐れみを惜しまれません。その神さまは私たち
を選んでくださいました。それは私たちが強かったり社会的地位が高いからではあり
ません。弱く叫ぶしかない者だから私たちを救ってくださったのです。イエスさまが
1節で「絶えず祈るべき」と言われるのは、私たちが祈りの中でしか得られない恵み
があることを教えられておられるからです。そして、やもめの姿は教会という私たち
という集まりだと言いましたが、この叫びは1人で続けていくものではないと思うの
です。1人では限界があります。私たちの抱えている悩みや苦しみ、神への叫びをお
互いに分かち合って祈り合って行くのです。やもめは不正な裁判官に何度も何度も訴
えました。その訴えは繰り返されるほどに強くなっていったので、不正な裁判官は
「顔面を殴られる」と身の危険を感じ、やもめの訴えを取り上げました。初めは小さ
な祈りでも、その祈りに新しく加わる者たちが現れ、やがて大きな叫びになります。
そして、ここに落胆しない力があります。神さまを希望として仰ぎ続ける力があるの
です。神さまは私たちの叫ぶようなうめきを聞いていてくださいます。神さまは私た
ちの小さな祈りを聞き逃しません。そして、私たちは祈りの中で、私たちを守ってく
ださる神さまに出会うのです。
 今日、イエスさまのみことばが、私たちに祈り求めなさいと招いてくださいまし
た。私たちの祈りを神さまの前に注ぎだしたいと思います。

東京聖書学院教会

◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次