礼拝日時:2026年1月25日(日)10:30~
説教題:「天の輝き」
聖書:マタイによる福音書 第17章 1~13節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:「栄光イエスにあれ」「恵の高き嶺」
天の輝き マタイ17章1節~13節
山の上で3人の弟子たちの前でイエスのお姿が突然変わりました。顔が光り輝き、衣
も目が眩むような白さで輝いたのです。さらに不思議なことに、二人の人物が現れて
イエスと会話をしていました。感動したペテロは、思わず「ここにいるのは素晴らし
いことです。私は小屋を三つ建てましょう。一つはイエス様のため、一つはモーセの
ため、もう一つはエリヤのために…」 そこがあたかも天国のようで、出来るならば
ずっとここに居てもらいたいと願ったのでしょう。
ペテロはずっと後になってもこの事は決して忘れませんでした。彼は教会に宛てた手
紙の中で、「私たちは、主イエス・キリストの力と来臨(再び来られること)をあな
た方に知らせるのは、巧みなつくり話に従ったのではありません。この私たちが、あ
の方の栄光の目撃者だからです。」(Ⅱペテロ1:16)と記しています。ペテロは
この世界が今はどれだけ闇に覆われていても輝くイエスは再び来られてすべての闇を
照らしてくださると信じていたのです。彼にとってはこの出来事は単なる不思議な出
来事ではなく、将来への希望につながる大切な経験でした。
私たちも人が見違えるという経験を持っていますが、イエスの場合は覆いを取られて
本来の姿が現れたということだと思います。さて、パウロという人はペテロのような
経験はありませんでしたが、ペテロと共通していることを言っています。「私たちは
皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主
と同じ形に変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。」(Ⅱコリント
3:18)パウロは内面的なイエスの輝きを見る私たち自身もその姿に似た者となっ
ていくというのです。私たちは自分の努力だけで、自分を輝くものとするのではあり
ません。しかし、イエスの輝きを経験するときに、私たちの内にイエスのような輝き
を持つのです。
顔の輝きは化粧でも美容(決して無用とは言いません)でもありません。顔にしわが
あっても、しみがあっても、齢を取っていっても、顔の輝きを持つことができるので
す。日ごとにイエスの輝きを経験していくなら、私たちは変えられていくのです。も
ちろん、私たちは召されて天国に入る時は栄光のイエスとお会いし私たちの姿もまっ
たく変えられます。そして、それはこの地上から始まっていくのです。暗く、問題の
多い世の中のただ中にあって、イエスの輝きを内に持ち、私たち自身も輝くことがで
きるのです。
そのような輝きを維持することは困難だとも思います。実際に、弟子たちはこの変貌
山の経験した後、山から下りて、さっそく難しい現実と直面するのです。山のふもと
では他の弟子たちが待っていましたが、待っている間に、ある病の息子をもつ父親が
癒してもらうように弟子たちに頼んだのですが、弟子たちはその子を癒すことができ
なくて困っていました。イエスはため息をつかれて、「なんて不信仰な時代なんだろ
う。」と言われ、その子を癒してあげました。私たちの前には現実という問題が立ち
はだかっています。しかし、私たちの内にイエスがおられるのも現実なのです。カー
ル・バルトという牧師であり、20世紀最大の神学者がおりました。1965年に亡
くなる前夜に彼は親友のトゥ―ルナイゼンという親友に長電話をしていました。その
時に彼は「世の中は暗い。そうだ、世の中は暗い。しかし、意気消沈しちゃだめだ。
主は支配しておられるのだから。ワシントンやモスクワや北京だけが、この世を支配
しているわけじゃない。天が支配している。だから心配するのはよそう。」こう言い
残したそうです。世界はどこもかしこも暗さで満ちている。けれども意気消沈するこ
とはありません。イエスの輝きが私たちの内にあり、また私たちは未来への希望を
持っているのです。
◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。