祈る時には

説教題:「祈る時には」
聖書:マタイによる福音書 第6章5-8節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌 9「力の主よ」」1,2,3,4 新聖歌 198「GOD BRESS YOU」1,2

 私達は何故祈るのでしょう?人は自分が無力で小さい者だと感じつつ祈ります。祈りは弱い人がする事なのでしょうか?何かに頼るよりも自分の力で切り開くべきだという人もいます。もっともです。けれども、人間は常に何者かに頼りつつ生きているもので、自分一人の力で生きているのではありません。自分の知らない事、出来ない事の方ができる事、知っている事よりも遥かに多い事です。

 都内のある神社で、早朝何人もの人々が祈りに来るそうです。お百度参りという祈り方です。仕事に行く前に境内の入口から、本殿まで、100回往復して祈るのです。1時間、2時間かかります。馬鹿らしいという人もいるでしょう。しかし子どもの受験のため、病気の妻のために一生懸命に祈る熱心さや愛情の強さに敬服します。今のイスラエルやウクライナで自分の息子娘たちが戦地にいるのならば、親は無事に帰ってこれるように必死に祈ることでしょう。

 さて、イエスは祈る時は、奥の部屋に入って戸を閉めるように仰いました。それは、外の世界との接触をいったん断ち、自分と神様だけの時間を持つためです。奥の部屋に入り、戸を閉めるとは孤独になるという事です。孤独はしばしば人を苦しめるものです。しかし、実は孤独は私の魂を養います。孤独は孤立とは違います。孤立は魂を傷つけますが、孤独は私と神との関係を親密にするのです。寂しがり屋の人は常に人といるのを好むかもしれませんが、あえて寂しさ、独りでいることの不安の中に自分を入れることは大切な事です。

けれどもあまり独りの時間だけが多いと、私の場合、気が滅入ってしまいます。個人差はあると思いますが、神が、人が一人でいるのは良くないと言われたのは真実です。誰かと一緒に祈ることは必要です。どうぞ、誰かと共に祈る時間を作ってください。

 祈りについてさらに大切な事はどなたに祈っているかという事です。見知らない誰かに祈るのではありません。主イエスは単純にあなたの父に祈れと仰います。あなたが祈る対象はあなたの父なのです。あなたを創造し命を与えた真の父です。(勿論この言葉は「母」をも意味します。神には性別ありませんから)私達が祈る時、神が現れて「お前はどこの何者だ?」とは聞かれません。「お帰り、良く帰ってきた。お前の来るのを待っていた」と言って下さる天の父なのです。

イエスは言葉数が多ければ叶えてもらえると考える必要はない、あなた方の父はあなたが言葉を出す前にあなた方の必要をご存じなのだと言われました。それでは、祈る必要はないのではないかと誰かは思うかも知れません。そうではありません。主イエスが祈るように私たちに命じるのは、神との交わりを持つためです。ある人は言いました。親は子どもの必要を知っているし、欲しがっているものを知っている。だからと言って親と子どもの会話は必要ないかというとそんな事はない。子どもが決して親と話さないのなら、親にとってはそれは寂しいものです。天の父はあなたの口からあなたの求めているものを聞きたいのです。そしてうっかり祈り忘れた事があっても大丈夫です。神はあなたの必要を、心の中の願いをご存じです。

この世界は私達にとって残酷な世界でもあります。突如として災難が襲ってくる。善人にも悪人にも災いが起こる。家族が奪われる。自分の仕事や健康が奪われる。自分の育った環境はひどいものだった。今の自分の人間関係は最悪だ。自分ではコントロールできないものがいかに多い事でしょう。だからこそ、私達は愛の神にすがり、祈るのです。すべては神の御手の中にあり、私達は羊であり、羊飼いであられる主が私たちの祈りを聞きつつ、どんな時でも、どんな所でも導いていて下さるからです。

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