礼拝日時:2026年1月11日(日)10:30~
説教題:「命を見出す道」
聖書:マタイ16章21~28節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:「聖なる聖なる」「主よ御手もて」
命を見出す道 マタイ16:21-28
イエスが言われる自分を捨てるとはどういうことでしょうか?自分の十字架とは何で
しょう?
「自分」という一個の人間の命は尊いものです。神は自らの言葉によって人を造ら
れ、愛されました。その独り子を犠牲にするほど人を愛されたのです。それほど命は
重いもので、価値あるものです。けれども、イエスはその大切な自分を捨て自分に従
いなさいと言われるのです。通常は捨てるものは不要なものです。自分は不要なもの
ではありません。「捨てる」という言葉の原語は、拒否する、否定するという意味で
す。自分の求めるもの、自分の願うもの、自分の欲望などを無視するということ、そ
れを脇において、もうわき見をしないということです。不要なものを捨てるのではな
く、自分にとって価値あるものをあえて拒否するのです。
イエスがこの言葉を語っていた直接の相手は弟子達でした。彼らは既に自分の仕事や
仕事道具を置いてイエスに従っていました。それなのに、なおイエスは言われるので
す。自分を捨ててついて来なさいと。ちょうど、この時、イエスはご自分のこれから
のことを言われていました。エルサレムに行き、そこで、裏切られ、捕らえられ、虐
待を受けて殺される。けれども三日目によみがえるという驚くべき内容でした。衝撃
を受けたペテロはイエスを脇に連れていき、「とんでもないことです!そんなことは
起こってはならないことです。」と強くイエスを諫めました。しかし、イエスは直ぐ
に「下がれ、サタン!あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。」これ
までにない強い口調でペテロを叱りました。
ペテロはイエスのことを救い主だと信じていましたが、それは彼なりの信じ方で、彼
の信条ともいえるものでした。イエスへの愛から生まれたものと言って良いでしょ
う。ところがそれはイエスの思いに反しており、イエスは、それこそ捨てるべきだと
おっしゃったのです。私たちはさらに価値のあるもののために、今、目の前にある価
値あるものを否定するチャレンジを受けるのです。良きサマリヤ人は、仕事と自分の
生活を優先する自分を捨てて、他者を助けました。ある所で一人の牧師さんがこんな
経験を話されました。地域の町内会で神社の境内の掃除がありました。初詣のため
に、境内を整える奉仕です。牧師として異教に仕えることをしていいのかという疑問
と、感情的な不快感や、時間と寒さの中の労を考えると抵抗があって、同じように牧
師をしているお姉さんに相談をしました。お姉さんは、宗教が違うとか偶像とかは考
えないで、そのことが地域の証になる事だから、おやんなさい、と言ったそうです。
彼はスッキリした気持ちになってご奉仕をしたそうです。境内に集まった時に自分は
教会の牧師ですと自己紹介をしました。一緒に作業をしているおじいさんに親しく会
話をする時間が持てました。考えてもいなかった証の機会になったというのです。譲
歩というのではありません。より高い価値のために敢えて自分のこだわりや思いを捨
てた時に、新しい自分を見出したのです。
イエスに従っていく上で自分の負う十字架というものが生まれるかもしれません。自
分を捨てるという時に重荷かもしれませんし、また、生きていく上で与えられている
重荷であるかもしれません。あなたの十字架は何でしょうか?こんなものは無ければ
よいと思うものが大部分です。でもそれこそイエスがあなたに託されている十字架か
もしれません。そして、その十字架はイエスが共に負ってくださる十字架です。イエ
スが自ら進んであなたという十字架を負ってくださいました。イエスが共に負って下
さるとき、その荷は軽くなるのです。
東京聖書学院教会
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◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。