礼拝日時:2026年1月4日(日)10:30~
説教題:「憐れみによる献げもの」
聖書:ローマの信徒への手紙 第12章1節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:「輝く日を仰ぐとき」「新しき地に」
新しい1年が始まりました。1年365日、神から与えられた日々を平安で幸いな日々とさせていただきたいと思います。今年の標語聖句は「きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいえにえとして献げなさい。これこそあなたがたの理にかなった礼拝です。」という聖句にさせて頂きました。この言葉は私たちに何を勧めているのでしょう?私たちの献げるべきものは死んで静止しているものではなく、生ける献げもの、それは、私の具体的な生活を意味します。
ここで使われている「献げる」という言葉には、本来、「置く」という意味があります。神の側に置くということです。つまり私自身を神の側に置くということです。私という生きた人間を神の側に置く、神のものとさせていただくことです。そのような生活が私たちの本当の礼拝だというのです。12章1節以下には、具体的な神に献げられた生活の内容が記されていますが、これらは単なる道徳訓ではなく、私たちの体を日々神に献げる時に、このような生き方が生まれてくるという事です。
今春、日本で翻訳出版予定の「日常という典礼」(ティシュ・H・ウォレン)という本があります。典礼というのは礼拝と考えても良いでしょう。私たちが普段、見過ごしがちな日常の瞬間や日常の作業に神の存在と導きを見出させる本です。普段の生活の中で神が私たちと共にあり、私たちを変える力を持っておられることを教えています。朝起きる時、歯を磨くとき、物を失くしたり、夫婦喧嘩があったり、Eメールを見る時間などの些細な事柄が意味のある豊かなものになるというのです。
たまたまなのですが、最近、何度も観ている映画があります。「パーフェクトデイズ」(役所広司主演)という特に事件のようなことが全く起こらない作品です。中年を過ぎる頃の主人公が毎日、公衆トイレ掃除の仕事をするという普段の生活を映しているだけの映画ですが、実に豊かな彼の生活を描き出しています。私の頭の中で、ローマ書12章のみ言葉と「日常の典礼」と「パーフェクトデイズ」が統合されました。私たちの体を神に喜ばれる聖なる供え物として献げるというのは、何も大袈裟な大仕事ではありません。日頃の生活の一瞬一瞬が神に与えられた自分の時間、これを神のものとして、自分が祝福されていることを自覚し、他者を祝福していく。そのような生活から人に対する優しさが生まれてくるのです。
冒頭の句「神の憐れみによってあなたがた勧めます」の憐れみは神の愛です。神の優しさと言っても良いかもしれません。神の憐れみとは超自然的なものです。自然の美、穏やかな時間などにも神の慈しみは現れますが、神の憐れみはそれを超えています。神の憐れみは私たちの逆境にも及ぶのです。私たちの日常は何かが起きたら、あっという間に崩れてしまうものかもしれません。病気や加齢、事故などで心の闇が広がって、一瞬一瞬が辛くなってしまう事もあるかもしれません。心の豊さどころではなくなる時もあります。けれども超自然的な神の憐れみは注がれており、私たちの悲しみを喜びに、苦しみを安らぎに変えて下さるお方がおられるのです。十字架上で私たちの痛みや悲しみの一切を背負ってくださったお方の力強い憐れみは今も私たちに注がれています。ですから、私たちは一瞬一瞬を神にゆだね、献げることができるのです。
東京聖書学院教会
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◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。