水と聖霊と火のバプテスマ

説教題:「水と聖霊と火のバプテスマ」
聖書:マタイによる福音書 第3章 11~17節
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌37番「主よ命の言葉を」1,2、新聖歌340番「救い主イエスと」 1,2,3

イエスの宣教の序章であるマタイ3章から始めます。最初に登場するのはバプテスマ(洗礼者)のヨハネです。彼のメッセ―ジは「悔い改めよ」というものでした。自分勝手な道から遠ざかり、神のもとに立ち帰りなさいというメッセージです。多くの人々が心を惹かれやって来ました。ヨハネは彼らの悔い改めの決断のしるしとして洗礼を授けました。

▼「悔い改め」とは自分の過ちを認め、それを改める事ですが、口で言うほど簡単ではありません。どうしてか?一つは悪しきことを止められないという人間の弱さと、何を改めるべきか分からない愚かさからです。けれどもヨハネが言う悔い改めとは、単に行動を改めて真面目になりなさいという道徳的な更正を言うのではく、私達の思いを神に向けるという事です。

▼ヨハネのことをイザヤは次のように預言しています(3)。「呼びかける声がする。荒れ野に主の道を備えよ。私達の神のために荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり、起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。」荒れ野とは私達の心の事です。そこに、神に向かう大路(ハイウェイ)を通すのです。尖った部分は削り、凹んだ所は埋めて、まっすぐで広い道を作るのです。

▼神へのハイウェイを造るには悔い改めることが必要です。しかし、私達はまともな悔い改めが出来ないものです。ダビデ王のように立派な信仰を持っている者でさえ、目を覆うような罪を犯しても自分の罪を意識しませんでした。人間は他人の過ちや罪はよく分かるけれど自分のは本当に分からないのです。

▼しばしば神が私達に悔い改めの機会を与える一つの方法は、「痛い目に会う」という事です。ダビデは自分の悪事がばれて初めて悔い改めました。でないと彼は一生、神に通じる道は閉ざされたままでした。勿論、聖霊は別の仕方でも私達を悔い改めへと導かれる方です。心の耳を澄ませてみれば、聖霊は私達を導かれるのです。

▼ヨハネは、自分は水で洗礼を授けたが、自分よりも後から来る方は火と聖霊で洗礼を授けると言いました。ある聖書学者はこう言っています。水は私達の表面を綺麗にするけれども、中身まで清くするわけではない。しかし、火は違う。物の芯まで焼き尽くし、溶かす。火のバプテスマはそのようなものだ。私の中味まで焼き尽くす。そして聖霊は私を芯から変えるのだ、と。 悔い改めは祝福の人生を変えます。私達は本来、神のものです。その神に立ち返ることが悔い改めです。

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