対決と平和

説教題:「対決と平和」
聖書:マタイによる福音書 第10章34-39節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌38番「わが目を開きて」1,2,3 新聖歌 321番「浮世の風と」1,2,3,4

主イエスは、私が来たのは剣を投げ込むためだと驚くべきことを言われました。一方で聖書はイエスは平和の王であると証しています。イエスの言葉は何を意味しているのでしょうか?改めて当時の社会にイエスがもたらしたものを見てみますと、イエスの言葉と行動は当時の旧いユダヤ人社会を揺るがしました。イエスご自身が彼らと対立しました。イエスは、ユダヤ人の律法の解釈は間違っていると言われ、一部の律法を破って安息日に人を癒しました。罪人や社会のアンタッチャブルと言われる人々と交際を持ちました。触れてはならないと言われていた既定の病を患っている人に触れました。すでに当時の慣習となっていた神殿の中における露店商売を止めさせました。一方でイエスのしていることに喜ぶ群衆がおり、それを憎む指導者層がいました。イエスの教えは社会の現状を維持し、社会を安定させるものではなく、むしろ変革を求めるものだったのです。そうです、イエスが来るところ、変化が起こり、対立が起きたのです。

 人間は基本的に安定と現状維持を求めます。現状が正しいものではなくても現状維持を求めます。不祥事があっても騒動が起きないように周りが隠そうとします。長い目で見るならばそれは社会に悪い影響を及ぼします。イエスの言葉はそのような社会にメスを入れるものでした。もちろんイエスは好んで敵を作ったのではありません。イエスの言葉や行動の動機は常に人々への愛であり、思いやりでした。自分の命さえ犠牲にする愛情でした。だからこそ多くの民衆がイエスのもとに集まってきたのです。

イエスが剣を投げ込むのは社会だけではなく、家庭の中にも投げ込まれます。親と子、姑と嫁、夫婦という親密な関係においてもです。むしろ親密な関係の中にこそイエスの存在は重大なのです。イエスはさらに厳しいことを言っておられます。自分よりも親を愛する者は私にふさわしくない。自分よりも我が子を愛する者は私にふさわしくない。私よりも妻や夫を愛する者は私にふさわしくないと言われました。家族は素晴らしいものです。愛する対象としてふさわしいものです。しかし、イエス以上にではないのです。クリスチャンにとってはこの世の最愛の人よりもさらに愛すべき存在があるのです。ある国の指導者は「~ファースト」としきりに言いますね。自国の利益を第一とするのです。これの良し悪しの判断は他の人に任せるとして、クリスチャンはキリストファーストの生き方です。人間は誰でも間違いを犯し、罪を犯します。不完全です。そのような存在を人生の究極のファーストにはできないのです。イエスを第一として、イエスを第一に愛するのです。他のすべては第二です。

 それでは、イエスにとってのファーストは何であったのでしょう。それは父なる神様です。当然でしょう。けれども三位一体の神さまのご性質のことを考えるとそれは順序には入らないかもしれません。そうするとイエスにとってファーストは私たちだと思うのです。私であり、あなただと思うのです。何故なら、イエスはご自身の命を私のために、あなたの為に献げてくださったのですから。イエスに従う者は自分の十字架を負ってイエスに従うのです。何故ならイエス自身が私のために十字架を担ってくださったのですから。

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