神との純粋な関係を生きる

説教題:「神との純粋な関係を生きる」
聖書:創世記 第17章1-8節
説教:土井恵 師
賛美:新聖歌171「今日まで守られ」1,2,3 新聖歌233「驚くばかりの」1,2,3,4

 中心となる御言葉は、17章の1節です。神との純粋な関係、それは私達がどのようにすることによって持つことが出来るのでしょうか。

1,聖書の神は全能の神だと知ることによって

 アブラハムは信仰の父と言われている人です。完璧な人で失敗もなかったのかというと、そうでもないのです。創世記12章には、保身のために自分の妻を王に差し出すということが出てきます。信仰の父と言われる人だけれども、その生き方や信仰に純粋ではない混じりけがあることがわかります。

アブラハムが99歳の時です。夜空の星の数のように子孫を増やすと約束されましたが与えられず、24年が経過しました。そして神は「私は全能の神である」とアブラハムに語られました。これは「どんなことにも届く神」という意味合いがあります。不可能と思えるところにさえも、神の手は届いてくださるということです。神の思われるベストなタイミングで良きことを私たちにもこの世界にも行なって下さるということです。そのことを受け止める、それが神と純粋な関係を持つための一つのことです。

2,神の前に歩み続けること

 神の前に歩む、これは、繰り返し歩み続ける、の意があります。神様を信じ続けていくことに、へこたれる心や思いがあるかもしれない。アブラハムにも神を繰り返し信じ続けていくことが困難だと思い、自分の思うままに歩むときもありました。しかし、純粋ではない混じりけがある中で、神が自分を愛し良くしてくださるということを知らされながら歩んで行きました。

 私たちも神を信じる純粋さだけではなく、混じりけがあると思うことがあるかもしれない。でも神は、混じりけがあったとしても、私のもとに来て、繰り返し神の前を歩み続けなさいと仰る。神と純粋な関係を持つ、神の御前を繰り返し繰り返し歩むということです。

 また、全き者でありなさい、とあります。私達の行いが神から人から非難されないようなものであるというより、「神は私を愛し、善きことを行なって下さると信じていくこと」です。その表れとして、救い主イエスキリストをこの世に送って下さり、イエスは十字架について死をもって私を愛し抜き、救いを私たちに示してくださいました。

聖書の神様は、あなたの生涯にわたって愛の限りを尽くしてくださるのです。たとい私達が混じりけのある純粋さを持っていないとしてもです。だから、この聖書の神を、私の神として受け止め、神との純粋な関係を生きようとしようではありませんか。

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