説教題:「上を見上げて、天の父と呼ぶ」
聖書:マタイによる福音書 第6章9-10節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌23「父の神よ 夜は去りて」」1,2,3 新聖歌 345「沖へ出でよ」1,2,3,4
今日から何回かにわたって主イエスが教えてくださった主の祈りを学んでまいりたいと思います。
祈りは呼びかけから始まります。誰に祈っているかは大事なことです。私達は天におられる私達の父に、「天にましますわれらの父よ」と祈ります。天とは何のことでしょう?勿論高度何メートルとかで測れる天ではありません。興味深いことに聖書の時代の人々にとって天は近くにあるものであり、また遥か彼方にあるものでした。天は大気のようなもので神が間近にいらっしゃることを意味しました。私達のささやくような、人に聞いてもらえないような声も聴いてくださいます。けれどもまた同時に私達を遥かに超えた天高くにおられる方です。私達の世界は混乱し、不安定で恐怖の世界です。けれどもこの地から私達は天に向かって、「われらの父よ」と呼べるのです。私達がこの世界という泥沼にはまって身動きが取れなくなっても、「天の父よ」と叫べば、父は私達の手をしっかりと取って上に引き上げて下さるのです。
昔の人々は目を開けて天を見上げて祈ったと言います。5000人の人々に五つのパンと二匹の魚を持って人々を養しなわれた時に、イエスは天を見上げて感謝を捧げられました。もちろん具体的な体の姿勢のことではありません、心の問題です。目は開けていても閉じていてもかまいません。上を見上げるように祈ることは大事だと思います。
神は天におられると同時に私達の間近におられ、私達の内側にもおられます。しばしば私達は頭を垂れて祈ります。それは神の前にへりくだることを意味し、私達の内におられる神に語りかけることを意味します。神が私達の心の内を探り、癒しを与え、また罪の悔い改めへと導きます。
さらに、父は私のものだけではなく、私達の父です。一つの神を通して私達は人とつながります。神はあなたが祈っている人々の神でもあられます。また神様は死と命を超えた父なる神様です。既に亡くなり、天国にいる人の父でもあります。一つの父なる神を通して私達は死をも超えて互いにつながっているのです。
神への呼びかけの後の最初の祈りは「御名をあがめさせたまえ」です。今の聖書の訳では「御名が聖とされますように」となっています。悲しいことに世界では神の名が汚されているような事が起こっています。この世界を造られた神の御名、互いに愛し合うために人間を造られた神の御名は残念ながら汚されています。神は悲しんでおられます。神よ、あなたの名が辱められないように、神の栄光と恵みが現わされるようにと祈るのです。
この言葉を別の言葉に表現すれば、御心のままになさって下さいという事です。私達の祈りの中心はこの信仰にあると思います。イエスご自身が十字架に架かる前夜、ゲツセマネの園で祈られた時、最後はこの言葉で締めくくられました。イエスの本心は十字架に架かることを望んでいませんでした。人間であるならば誰であってもそうでしょう。イエスはこの苦しみを取り除けて下さいと必死に祈られました。しかし、最後は、「あなたの御心のままになさって下さい」と祈られたのです。私達の祈りの目的は、神さまの栄光が表されるためです。神の素晴らしさと恵みがもっとも表されることを祈るのです。私の神は天におられる私達の父です。御心のままに、御名があがめられるようにと祈るのですが、それは私たちにとっても最善でもあり祝福となるのです。