説教題:「天の支配」
聖書:マタイによる福音書 第6章9-10節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖145「栄に満ちたる」1,2,3 新聖歌434「語り告げばや」1,2,3
今日は、主の祈りの「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という部分を学びます。御国は直訳すると、「あなたの国」ですが、同じ言葉は他の聖書の箇所では、天国とか神の国として表現されています。ところで天国は一体「来る」ものなのでしょうか?天国は「入る」ものだと思っていた方がおられるかもしれませんが、そうなのです。天国はやってくるもの、実現するものです。そしてそれを待望するのが私達です。
いつ来るのか?どのように来るかという事ですが、これには二通りの意味があります。一つには天国は将来において実現するという事です。現在の世界は滅びて新しい世界がやってくるというのが聖書の教えです。もう一つの意味は、今、ここに神の国は現れるという事です。イエスは、神の国はあっちにある、こっちにあるというものではなく、あなた方の只中にあるのだと言われました。あなたの心の内に、人と人との間に、この地上に、神の国が現れるように私達は祈るのです。天国は、今、ここで始まるのです。
天国は地上の国家のように、領土や政治を意味しません。神の支配するところを意味します。神は愛と平和の神様ですから、神の愛と平和の支配が隅々にまで及ぶのが神の国であり、私達はそのように成るために祈るのです。残念ながら、私達の世界は神の支配が及んでいません。争いがあり、憎しみがあります。私達クリスチャンはそのようなところに神の支配が及ぶように祈り、また労するのです。完全な神の国は地上では実現しませんが、私達は天国の先取りを私達の生涯の中で経験できるのです。
私達は普通、地上で神が支配されるところというと、教会が考えられます。しかし教会は聖人のような人間の集まりではなくて、罪人の集まりです。程度の差こそあれ、世の中にある俗的なもの、罪的なものは、そのまま教会の中にも起こり得ます。神の支配というのは、全く罪のない世界のことではありません。罪が起こった時の人々の対応を問題とするのです。問題は罪を隠そうとするのか、無かったことにするのか、それとも罪と向き合い悔い改めるのかです。悲しいことに教会の歴史の中には罪を隠すことがしばしば起こってきました。天の国とは、間違いが起こることではありません。それが起こった時に、そのような汚物と向き合い、悔い改めることにあるのです。
他人のことではありません。第一にご自分のことを考えるのです。そして私の内に神の恵みの支配があるように祈るのです。神の支配はまずあなたの中から始まります。あなたの心の内に神の支配が及んでいない所があったのなら、それを神の支配に明け渡すのです。神に無条件降伏をするのです。これは痛みを伴うこともあるでしょう。しかし、神の御心に身をゆだねて生きるのです。
神は愛と平和の神ですから、御心が行われる時に、真の愛と平和が実現します。しかし、物事の順序として、私達にとって試練というべきものが起こります。しかし、私達は常にその向こうにあるものに希望を持てます。イエスの十字架の後、三日目に復活が起こりました。
あなたは今どの位置におられますか?試練を前にしていますか、試練の只中ですか。墓場の中にいるような気持ちですか。どこにあっても御国が来ますように、御心が行われますように祈るのです。たとい、あなたは上手くいかないと思う事があっても心配する事はありません。神があなたを用いて、御心を成されます。それが私達にとって最高の祝福となります。