生きること、食べることの祝福

説教題:「生きること、食べることの祝福」
聖書:マタイによる福音書 第6 章11節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌333「神の時の流れの中で」1,2 新聖歌206「飼い主わが主よ」1,2,3,4

 今日は主の祈りの「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」という部分を学びます。日ごとの糧という私達のもっとも身近で切実な祈りの内容です。クリスチャンであるならば、大抵食事の際は感謝の祈りをします。自分で稼いで食っていると云う人もいるでしょうが、私達の食べ物はすべて他の人の労苦に頼っています。皆さんの中で完全な自給自足の生活をしておられる人はいないでしょう。もしいたとしても、それでも人間は、大地の恵み、雨の恵み、太陽の恵みに頼って食べているのです。

  しかし、主の祈りを見ますと、「食事を感謝していただきなさい」ではなく、「日ごとの糧を今日も与えて下さい」となっています。あまりこのような祈りはしないのではないでしょうか?朝、起きて、今日も神さま、食いはぐれることがありませんようにとはあまり祈りません。このことをある人と話していましたら、世界の食料を不足しているところでは、それは切実な祈りでしょう、と言われました。なるほどその通りです。今、世界の1割の人々が深刻な飢餓状態にあり、三分の一が食料不足を経験しているという事です。その事のために祈ることは必要です。「私達の日ごとの糧」と言っていることに注目しましょう。自分だけのことではありません。世界の兄弟姉妹のために祈るのです。

 日ごとの糧とは私たちに必要なすべてを代表しています。私達は食べ物だけではなく、空気も日光も住む家も必要です。肉体の必要だけではなく、心の必要もあります。魂の必要もあります。イエスはそんな私達の日ごとの必要のために祈りなさいと言われるのです。必要を感じたら祈りましょう。祈っても祈らなくても変わらないのではありません。変わりがあるのです。だからこそ、イエスは祈るように言われたのです。

 私達はそのことを天の父に祈ります。親は子どもに必要なものを与えたいと願うものです。イエスは言われました。子どもが魚を求めているのに、蛇を与える親がいるだろうか、パンが欲しいと言っているのに、意地悪して石を与える親がいるだろうか。天の父はあなたが真剣に祈り求めているものを無視することがあるだろうか?日常の小さなことでも私たちを愛してくださるお方に祈りなさいと言われるのです。

 食べることに関して、時に私達は障害を感じる時もあります。コロナの症状で味覚障害というものがありました。私は神が味覚を与えて下さっているのに感謝します。味覚がないと食事を楽しむことが出来ませんし、そもそも食欲がわきません。また味覚があっても食事が味気ないことがあります。孤食と云う言葉があります。独りで食べることです。独食もそれはそれで楽しいこともありますが、成長期の子どもにとっては誰かと一緒に食べることは大切な事です。お母さんとボクだけの食事も良いですが、他の人と一緒に食べる食事が私達の心を豊かにすることもあります。教会で昨年秋からマナ子ども食堂が再開されたことは幸いなことだと思います。お母さんたちや子供さんたちが楽しそうに食べています。独りで普段食べているお年寄りにも良い時間です。

 また逆に、他の人と一緒だと食べられないという方もおられます。緊張するのです。そのような方たちのためにも、必要な糧が与えられ、心も体も養われるように祈るのです。また、食べることにおいて様々な課題を持っておられる方もいます。その方のために祈るのです。心と体に必要なものが満たされるようにと。「日用の糧を今日も与えたまえ」この祈りを毎日の祈りの中で継続して祈りましょう。何が自分にとって、あの人にとってこの人にとって、必要であるか考え、そのことを祈りましょう。祈りは私達の人生に違いをもたらすのです。

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