説教題:「赦しという大問題」
聖書:マタイによる福音書 第6 章12節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌100「御国を御座をも」1,2,3,4 新聖歌340「救い主イエスと」1,2,3
主の祈りの後半には願いごとが三つあります。一つは日ごとの食物のため、二つ目は罪の赦し、三つめは試練からお救い下さいというこの三つです。たった三つの願いごとの中にイエス様は罪の赦しを含め、そのことを毎日祈るように言われたのです。
赦される事、赦す事、どちらも時に大変難しいものです。「神よ、私の罪を赦してください。私が人の罪を赦したように」と祈るのですが、さて、この言葉を真剣に捉えるならば、容易には祈れないと思います。私が赦していないと、自分も赦されない事になるのでしょうか。マルコ11:25には「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなた方の父も、あなた方の過ちを赦して下さるでしょう。」というイエスの言葉があります。私達は人を赦せるでしょうか?もし皆さんの心の内に赦せない何ものかがあるとしたら、あなたはよほど傷ついているのでしょう。あなたを傷つけた人はよほどひどいことをしたのです。イエス様、あなたは赦してあげなさいといわれるけれど、そんな生易しい事ではありませんと言いたいのです。
赦しはなぜそのように難しくなるのでしょうか?それは傷が深いからです。その傷をこれ以上深めたくないのです。人間の本能は赦しの反対、やられたらやり返すです。私たちは復讐という実際の行動を取らないかも知れませんが、心の中で、相手を憎むことによってやり返すのです。
しかし、いったい、赦すとはいったい何でしょう?今までの事は無かったことにして元の関係に戻ることでしょうか。もちろん、そうだとしても、償いをする必要はあるでしょう。でも赦しは償いをしてもらったら、それで完了でしょうか。では一体、赦すとはどういうことでしょうか?相手のしたことを忘れることでしょうか?まずは、憎しみや怒りによる攻撃を止めることでしょう。でも、心の中で無かったことにすることはどうしても出来ないかもしれません。そのような方法はないと思います。赦すということは人間にはできない事です。だからこそ祈るのだと思います。 赦しというものがあまりに困難なので、私達はどこかであきらめてしまっている所があるかもしれません。私は罪人なんだからと仕方がないのだと逆に開き直ってしまっています。そんな人間に罪の赦しのことを日ごとに祈りなさいと言われるのです。
もう一度イエス様の「私が赦したように、私をも赦してください」という言葉を考えてみましょう。これは決して私が赦されるためには人を赦さなければならないという救いの条件の事を云っているのではありません。赦されるという事と、赦すという事は深くつながっているという事です。もし私が人を赦すことの困難さを感じているのならば、私という人間の罪を神様だって赦すことの困難さを感じておられるのです。私が傷つけられたことに苦しんでいるのならば、私の罪はどれだけ神さまを悲しませていることでしょう。
けれども、もし皆さんが現在なおも傷つけられている立場であるならば、ご自分を守ることを優先して下さい。あなたが癒され、養われるためにお祈りしてください。あなたの日ごとの体の必要のため、心の必要のために祈りなさいとイエスは赦しの祈りの前に仰っています。
イエスの言葉や行動を見ると赦しの究極的な目的は、相手を愛することだという事が分かります。自分を傷つけた人を憐れみ愛することです。もちろん好きになれという事ではありません。愛するとは相手の幸いを願い祈る事です。赦しは愛の大きな現れです。神はそのような愛をもって私達を赦して下さいます。赦せない私を赦し、愛しておられます。そして人を赦せるように、愛せるように助けて下さるのです。
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