説教題:「怒らないで生きられる」
聖書:マタイによる福音書 第5章 21~26節
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌299番「山辺に向かいてわれ」1,2,4 新聖歌376番「如何に汚れたる」1,2,3,4
怒りはしばしば私達にとって制御不能であり、そのもたらすものは破壊的です。けれどもイエスは私達に怒らないで生きることを勧めておられます。イエスはまず昔からの「殺してはならない」という律法を引用しました。しかしイエスは行為としての殺人を禁じるだけではなく、その行為を引き出す怒りというものに目を向けさせます。人の怒りについて最も古い聖書の記述は創世記です。カインが弟アベルに嫉妬して激しい怒りを持ちます。神はカインに語られます。「罪が戸口で待ち伏せている。あなたはそれを治めなければならない」(4:7)。結局、カインは罪を治めることができず、怒りのゆえに弟アベルを殺してしまうのです。怒りが罪を引き起こしたのです。
聖書には、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(エフェソ人への手紙4:26)とあります。怒りそのものは罪ではないけれど、それを放置しないようにと言っているのです。でないと、怒りはあなたの内で肥大しあなたにも周りの人にも害を及ぼします。
ある人が2種類の怒りを説明しています。一つは瞬間的反射的な怒りです。満員電車で足をハイヒールで踏まれてムカッと来る怒りです。一瞬のことで、時には人間関係に大きなひびが入ってしまうことがあります。けれどもさらに深い問題となるのは、心の内に積み重なっている怒りです。恨み、憎しみとなって本人も苦しみますし、周りも苦しみます。しかし、制御できません。そのような深い怒りの元となるのは心の傷です。それには深い悲しみや苦しみ、そして孤独感が伴っています。また物事が自分の思い通りにならない時、こうあるべきだと信じるものが、そうならない時、怒りは人に向けられたり、神に向けられたりします。
イエスは、怒りを放っておかないように忠告なさいます。礼拝で怒りの問題に気付いたら、きょうだいと和解するように言われます。私達は自分の内の怒りと向かい合う必要があります。それは神の前にその怒りを正直にさらけ出すことです。自分の気持ちをそのまま神に訴えることが必要です。詩編は美しい言葉で満ちていますが、私達に不快感をもたらすような乱暴な怒りの言葉も多いのです。そこで語られている行動などが、決して正当化されているわけではありません。重要な事は、彼らが自分の苦しみ、痛み、怒りを神にありのままに訴えている事です。人には言ってはいけないことを神に向かって叫んでいるのです。これも祈りだと思います。深い怒りには、傷ついた心や悲しみ、孤独、憤りがあります。それらは神さまによって癒され修正される必要があります。
神が私達の思いを正してくださいます。そして私達の怒りを正しい方向に導いてい下さるのです。怒りという感情も本来神が与えて下さったものです。神は私達に不正や罪などを嫌悪し、それを拒む感情をお与えになりました。しかし、私達の内にある罪のゆえに、それは時に過激になり、コントロール不能になり、間違った方向へ行ったり、独善的で、暴力的になります。しかし、あなたの内にある怒りは正しい方向に、神の聖きと慈しみに変えていただくことができるのです。
そのためには常にイエスにつながっていることです。祈ったからすぐに自分の怒りやすい性格が変わるわけではありません。しかし、私達はイエスとのつながりの中で変えられていくのです。怒りは様々なトラブルを生み出しかねないものですが、その根っこが変えられる時に、神に用いられる聖い器となるのです。イエスは忍耐あるお方です。人間の不正で歪んだ怒りを一身に受けとめて十字架にかかられたのです。このイエスが私達を変えて下さるのです。