説教題:「天のふるさと」
聖書:フィリピの信徒への手紙 第3章 20、21節
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌336番「日暮れてやみはせまり」1,2,4,5 新聖歌471番「われ聞けり かなたには」1,2,3
私達は先に天にお送りした兄弟姉妹のことを偲びつつ、礼拝を守ります。召された方を想い、その方を通して与えられた恵みを感謝し、その思い出を分かち合う為です。その方の歩まれた生涯は私達に様々な祝福を与えてくれました。皆さまの中には既に、懐かしいという感情をもって、その人を思い出す方もいらっしゃるでしょうし、まだなお深い悲しみと心の痛みを覚え、思い出すことが辛い方もおられると思います。
皆さまの大切な人は、今のあなたの人生というものの大切な部分を作ってくれました。それは神の恵みです。その人の死が、いかに大きな悲しみを与えたとしても、神さまがその人をあなたの人生のお与えになりました。その人を亡くした悲しみが深ければ深いほど、その人の存在は尊いものでした。そこに神の恵みがあったことを信じたいと思います。
今日のお話の題を「天のふるさと」といたしました。「私達の国籍は天にある」という聖句から取りましたが、「国籍」という言葉を、私は「故郷」と訳したいと思います。既に召された人にも、あなたにも天の故郷を神は与えて下さっています。故郷という言葉は私達に何か懐かしさを感じさせます。私はこの聖書の言葉を読んでいる時に、日本の代表的な唱歌である「故郷」を思い出しました。しみじみ良い歌です。ちなみにこの歌の作曲者は、岡野貞一という方でクリスチャンでした。何となく賛美歌を思わせるメロディーです。
故郷とは遠くにいる時に感じるものです。日本という国が自分の故郷だとつくづく感じるのは長いこと外国に住んでいる時です。外国に住む日本人はその地に日本人町を作り、故郷を垣間見ることをしたものです。けれども神様はかりそめの故郷ではない本物の故郷を私達には与えられています。そこはすべての人にとっての故郷です。なぜならすべての人の命は神から来ているからです。天の故郷はいつか私達が帰るところです。地図にはない場所ですが、異世界という場所ではありません。私達はそこに行きましたら、本来の自分の故郷に帰ってきたという懐かしさがある場所なのです。
天国はいつか帰る場所ですが、今の私は自動的にそこに行けるわけでないようなのです。聖書にこうあります、「そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私達は待ち望んでいます」。救い主は天から私を迎えに来て下さり、天の故郷へ連れ帰って下さるのです。私達はそれを待ち望んでいます。キリストご自身が既に、地上に来てくださり、私達の罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活なさってくださいました。私達のために天の故郷への道を開いて下さったのです。
何と感謝な事でしょう。そして天の故郷は、いつか将来のことで、その時になれば考えればよろしいという事ではありません。それはもったいない事です。今現在、あなたは天国の市民なのです。それはあなたが何者であるかを物語っています。あなたは今、この地上に生き、この地上のルールに従って生きています。しかし、あなたは天の市民としての特権をもってこの地上を生きることができるのです。天からの恵みに従って生きることができるのです。互いに愛し合うこと、赦し合うこと、悩みや重荷を一切神にゆだねて生きること、私達は天の故郷への望みに生きる時に、天からの助けを受けつつ生きることができるのです。