説教題:「聖書を完成させるイエス」
聖書:マタイによる福音書 第5章 17~20節
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌37番「主よ命の言葉を」1,2 新聖歌342番「神の子なるイエス」1,2,4,5
主イエスは「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。…完成するためである」と言われました。そもそも律法とは神が人間の幸福のために与えられたものです。律法はこのままでは未完成なのです。「殺すな」というルールは必要です。しかし、殺さないだけでは不十分なのです。問題は人間の心にあります。憎しみ、怒り、自分のためには人を顧みない心。律法の本当の目的は単なる行動ではなく、その心の内にあるのです。だから本来ならば、人を憎むな。赦しなさいという事なのです。イエスが来られたのは人間の外側を変えるだけではなく、内側を変えるために来られたのです。これが律法を完成するという意味です。
律法の本当に目指すところはルールを守るという事に留まりません。イエスはあなた方の義がパリサイ人や律法学者の義に優っていなければならないとおっしゃいました。義とは神との正しい関係のことを意味します。そのようなことは不可能だ!と私達は驚くかもしれません。
パリサイ人や律法学者の義とは、一つには掟から入る義です。ルールを守ることは大切です。禁酒禁煙、奉仕、献金、礼拝厳守などは悪いものではありません。むしろ良いものです。しかし、信仰の本質はルールを守ることにあるのではありません。私達の心はそれでは満足できないのです。
もう一つは、見栄のためです。信仰が人に見せるためのもの、プライドを維持するためのものになっているのです。当時の人々は献金や施しなどを目立つようにすることが習慣となっていました。本当の奉仕とは神の前でするものです。たとい、誰にも気づかれなくても、誰にも感謝されなくても、神とあなたの関係で行う事に意義があるのです。
これらの義に優る義とは、神さまとの個人的なつながり(関係)をもつ義です。神との正しい関係にある義です。ヨハネ福音書では、葡萄の木と枝の関係に譬えて私とイエス・キリストとの関係を語っています。「私は葡萄の木、あなた方はその枝です。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、あなた方は実を豊かにむすぶ」(ヨハネ15:5)。キリスト教は神とあなたの関係を最も重視します。イエスにつながっている事によって実が結ばれ、正しい行動が生まれてくるのです。
イエスは一つの譬え話をしています(ルカ18:9-14)。一人のパリサイ人と一人の徴税人(人々から見下されている人)が」祈るため人神殿に上った。パリサイ人はこう祈った、「神よ、私は他の人のように盗む者でも、不正をする者でも、淫らな事をする者でもないことを感謝します。またこの徴税人のようなものでないことを感謝します。私は週に一度断食をし、十分の一の献金もしています。」ところが徴税人の方は、目を天に上げようともせず、手で顔を覆って「神さま、罪人の私を憐れんでください」と言った。神が義とされたのはパリサイ人ではなくて、徴税人の方だった。
パリサイ人はただ自分のことを言っているだけで、神との人格的なつながりはありません。けれども、徴税人は神の憐れみを乞い、その憐れみによって神とつながろうとしているのです。自分が罪人という自覚は、自分は無力で神に何の貢献もできない者、弱さがあって、すぐに駄目になってしまう者という事です。胸をたたきながらとありますから、どん底に落ち込むようなことがあったのかもしれません。彼が乞うのは神の憐れみでした。そこから始めなければ何もできません。イエスはこのつながりを私達に与えるために、私達の方に近づいてくださったのです。自分が弱い時にこそ、罪に汚れた時にこそ、神の助けが働く、日ごとに神に頼って生きていくこと、それこそパリサイ人や律法学者に優る義なのです。