聖霊への反逆

説教題:「聖霊への反逆」
聖書:マタイによる福音書 第12章22~32節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:新聖歌 第137番「聖なる 聖なる」1,2,3,4 第344番「なおも御恵みを」1,2,3,4

 この聖書の個所で大変気になるところは、最後の「どんな罪でも赦される。けれども聖霊に言い逆らう罪は決して赦されない。」という言葉かもしれません。赦されない罪があるということに驚きますし、聖霊に逆らう罪とは難解です。ある本にはこんな事が書いてありました。赦される罪は仕方なく犯した罪や過ちなどで、赦されない罪は積極的に犯した罪だというのです。日本の刑法も偶発的に犯した罪と計画的に犯した罪の刑罰には違いがあります。聖書の例を挙げますと、ペテロも罪を犯しました。ペテロはイエスの十字架についての予言を聞いた時、イエスの言葉に不信仰を持ちました。また十字架前夜、イエスを知らないと3度も繰り返してイエスを裏切りました。これらの罪は仕方なく、弱さのゆえに犯した罪で赦される罪です。しかし、イエスを売り渡したユダの罪は計画的であり、積極的な罪だったので赦されることはないというのです。

 しかし、振り返ってみれば、人の罪には仕方なく犯した罪もあれば、分かっていて犯した罪も少なくないように思えます。イエスが十字架におかかりになった時に、隣にもう一人の犯罪人がおりました。彼も十字架刑という極刑を受けていました。彼の犯した多くの罪は仕方のなかった罪、弱さゆえの罪などではなかったと思います。彼自身、この罰を受けて当然だと思っておりました。そんな彼はイエスに向かって、「あなたが御国にいらっしゃる時に、隣に私のような人間がいたことを思い出してください。」と叫んだのです。イエスの答えは彼の期待を超えて、「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいる」でした。彼の罪の赦しの宣言でした。 

 どんな罪でも赦されるのです。しかし、ただ一つ、聖霊に反逆する罪は赦されない。この意味を理解するためにはこの前の文を読み解く必要があります。イエスの前に目が見えず、口もきけない、悪霊に取りつかれた人が連れて来られました。おそらく耳も聞こえない三重苦の障害を持つ人でした。この人をイエスは奇跡的に癒されました。民衆はそれを見て「この人がダビデの子(メシア)ではあるまいか」と思しました。イエスに敵対する人にとっては面白くありません。彼らにとって自分たちのプライドを傷つけた律法破りの無法者がメシアであるわけがないのです。ですから、目の前に起こった奇跡も「あれは悪霊の頭ベルゼブルが悪霊を追い出したのだ」と民衆に吹き込んだのです。ベルゼブルとは、悪魔サタンの同義語か、または悪霊の親玉の蔑称だったと思われます。つまり、イエスの奇跡を「あれはクソ悪霊の親玉の力を使っているのにすぎない」と言ったのです。けれどもイエスは冷静に悪霊が悪霊の仲間を追い出しているのならば、それは内輪もめで悪霊だってそんなことはしない。悪霊が打ち負かされているとすれば、それは悪霊の対極にある神の力による。神の恵みの力はあなたのところに来ているのだと言われました。そこでイエスは「聖霊に反逆する罪は赦されない。」と言われたのです。神の働き、つまり聖霊の働きを拒否する者には神の恵みでさえ、あなたのところには届かない。」という意味です。赦されない罪とは、聖霊の助けに逆らい、独りで何でもやってしまおうとする罪です。私たちの心は時に頑固で容易に人の思いや神の思いを受け入れられません。自分は独りでやるしかないと思い込んでいるのかもしれません。けれども、神はあなたに近づき、あなたを救おうとなさる神です。あなたは独りではありません。目に見えない聖霊の働きに身をゆだねる時、あなたは赦しの経験、救いの経験をするのです。

◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。

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