キリストによって生きる

説教題:「キリストによって生きる」
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第2章20節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:新聖歌 第208番「イエスは愛で満たす」 第342番「神の子なるイエス」1,2,3,4,5

 キリストが私の内に生きておられるという真理は大変深く幸いなものです。注意したいのは、聖書には「生きる」という言葉の前に、「死ぬ」という言葉があることです。もちろん肉体的な死ではなく、律法に死んだと聖書は言います。この手紙の著者であるパウロにとってキリストが自分の内に生きるためには、律法に死ぬことが必要だったのです。律法は本来良いもので人間が幸せに生きるために必要なものでしたが、いつしか人間を縛るものになっていました。パウロは自分が律法に対して死んで、律法から自由になったというのです。広い意味で律法を捉えれば私達の内にも古い律法があるものです。私達も律法に死んだことによってキリストは私の内に生きてくださるというのです。

 キリストが自分の内に生きるとはどのような事でしょうか?一つの考え方は、「もしもキリストが自分の立場だったら、どうされるだろうか」と常に考えて生きることだと言えるかもしれません。怒りが爆発しそうになった時に、少しでも自分の心に冷静さがあるのならば、こんな時はキリストだったらどのようにふるまうだろうかと考えることは良い事です。けれども、キリストのように生きる目標がいつのまにか、恵みというよりも自分の中で「律法」になってしまうこともあるかもしれません。そして律法の難点は自分を縛るだけではなく、他人をも縛ろうとすることです。律法を守っている自分を誇りにし、それが人への裁きとなってしまうのです。キリストのように生きること、それはガイドとしてならば大いに結構です。しかし、ひとたび律法になると私を不自由にさせてしまいます。

 けれども私達は律法に死にました。律法を守ることによって救われるという縛りから私達は自由にされたのです。パウロが死ぬという言葉を使った時、自分が努力して自分に死のうとしているのではなくて、自分がキリストを信じた時に既に死んだのだと言っているのです。私達は信仰によって救われます。神様がもっとも私達にお望みになっているのは信仰です。神は私達の善い行いを喜ばれるお方です。けれども、神の愛は私達の行いで左右されません。私が罪人であっても神の愛は私達に向けられるのです。神があなたに望んでおられるのは、この神さまの愛への信仰です。

 しかし、信仰でさえ、律法的になることがあるかもしれません。自分たちの力で信仰を何とかしようと思う事もあります。もちろん私達の意志や努力も必要です。けれども信仰は神の恵みの賜物です。20節の後半に「神の子の真実によって生きる」という言葉があります(協会共同訳)。以前の口語訳や新改訳聖書の翻訳では、「神の子への信仰によって生きる」とあります。実は、この「真実」という言葉と「信仰」という言葉の原語は「ピスティス」という同じ語なのです。イエス・キリストへの信仰によって生きる、ということと、イエス・キリストの真実によって生きるということは同じことなのです。私達は私を愛してわが身をささげてくださった方の真実によって生きる、そしてそれを信じる信仰によって生きるのです。真実という言葉をもっと日本語らしい言葉にすると、「まごころ」だと思います。私を愛して下さるイエス・キリストの「まごころ」によって私達は生きるのです。

 このキリストが私の内に生きていてくださり、私を助けてくださる。自分は死んでいるのだから、変に力を入れる必要はありません。キリストが私のために生きてくださるのです。このキリストは私の内におられ、そしてあなたの内にもおられるのです。

◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。

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