小さな者に一杯の冷たい水対決と平和

説教題:「小さな者に一杯の冷たい水」
聖書:マタイによる福音書 第10章40-42節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖312番「日ごと主イエスに」 新聖歌 209番「慈しみ深き」

この言葉は弟子たちを派遣するにあたっての、イエスの助言の締めくくりの句です。10章全体が弟子派遣についての教えでした。イエスはねんごろに彼らに指示を与え、最後にこの段落の言葉があるのです。「あなた方を受け入れる者は私を受け入れるのです」 あなたが語ることを受け入れるということは、私を受け入れているのだというのです。これは私たちに与えられている務めの重大さと尊さを表わしていると思います。

 さらにこう言われます。預言者を預言者だということで受け入れる人は預言者と同じ報いを受ける。預言者というのは、この場合、神の言葉を語る弟子たちと言って良いでしょう。報いとはイエスが良く使われた言葉ですが、永遠の命の報いです。預言者は語ることによって天の報いを受けます。彼らだけではなく、その言葉を聴いて受け入れる人も語った人と同じ恵みを受けるのです。私が講壇で語ることによって私が天の報いを受けるとしたら、その同じ報いが、聴く会衆である皆さんにもあるというのです。神の恵みというものはそれを語る者と聴く者とをつなげるものなのです。

 そして、イエスは正しい者を正しい者ということで受け入れる人は正しい者と同じ報いをうけるのだと言われます。正しい人という日本語は公明正大というイメージがあって、あまり人間味がないとも取れますが、そうではなくて、純粋無垢、善人、思いやりのある神の前に正しい人という意味もあります。この正しい人を受け入れるということはその人の正しい行為を受け取る意味だと思います。神の報いは正しいことをする人にも、受ける人にも与えられるのです。人の助けを得ることは本来嬉しい事であるのに、時に私たちは素直に受け取れないことがあるかもしれません。人から助けられることを申し訳なく思ったり、自分のプライドが傷つくというのもあるのでしょうか。神の恵みのわざというのは与える者と受ける者との共同作業のようです。ですから正しい人の行為を受ける人は、正しい人と同じ報いを神からうけるとイエスが言われたのです。

続いてイエスは、あなたがイエスの弟子だということで、あなたに一杯の冷たい水を与える者は神からの永遠の報いを受けると言われました。一杯の冷たい水は乾燥地帯の中東では大変貴重なものです。コップ一杯の冷たい水がどれほど人の喉を潤し、心を満たすことでしょう。一杯の水を飲ませてあげるというささやかな行為はその人を喜ばせるだけではなく、神を喜ばせることだというのです。

 さて、このイエスの言葉に似ている言葉がマタイ25:34-40にあります。「あなたは私が空腹でいる時に食べさせ、渇いている時に飲ませ、宿無しの時にもてなし、裸の時に服を着せ、病気の時に看病をしてくれ、牢獄にいる時に訪ねてくれたた」と言われて彼らを天国に迎え入れるのです。しかし、人々は「いつ私があなたにそのようなことをしましたか」と尋ねます。イエスは答えます。これらの兄弟姉妹の最も小さな者にしたことはすなわち私にしたのだ」と答えられます。イエスは私たちの内の小さき者たちの中におられます。私たちは大きなことはできないかもしれません。しかし、どなたかに一杯の冷たい水を差し上げることはできるかもしれません。そのことを誰より神さまが喜ばれるのです。

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