説教題:「立派な生涯って?」
聖書:テモテへの手紙二 第4章6-8節
説教:松島 基起 修養生
賛美:新聖171番「今日まで守られ」1,2,3 新聖歌 399番「この身の生くるは」1,2,3
今日の箇所で注目したいのは7節の言葉です。「私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」この言葉をみなさんはどのように受け取るでしょうか。私はパウロが人生の最後にこのように言えたことに驚きました。そしてどうすればこのようなことを言える生涯を歩めるのか、そのようなことに思いを巡らせました。彼は決して自分の歩んできた人生そのものを誇るためではなく、むしろここまで導いてくださった神に目を向けているということなのです。
それをよく表しているのが8節の言葉です。「今や、義の冠が私を待っているばかりです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう。」
パウロは神様が自分の生涯の終わりに、義の冠が与えられることを確信していました。この義の冠とは何でしょうか。第一に死してなおキリストと共にいることできる永遠の命です。だからこそ彼は6節で「世を去る」という言葉を使うのです。死が差し迫るような状況でも彼はこのことからくる平安がありました。
第二には神が私たちを完全に義としてくださる、神が私たちを完全に御心に適ったものであると、私たちを評価してくださるのです。この冠は私たちの功績によって与えられるものではありません。パウロが7節で語ったような人生を歩んだから与えられるのではありません。
これは神が一方的な愛と哀れみによって私たちに与えてくださるものです。神様があげたいからあげるものなのです。パウロは自身を罪人のかしらと呼び、使徒の中で最も小さなものであると語っています。彼自身は自分が義の冠を受けるに相応しいような、自分を誇れるようなものではないことを知っていました。それでもなお彼がこのことを確信できていたのは、彼が人生の中で神の愛と憐れみの中に生かされていたことを知っていたからです。だからこそ欠けがあっても、失敗があっても神が私を愛していてくださることに立つ時、この希望が彼のうちに与えられたのです。
そしてパウロはこの栄冠が主を待ち望むすべての人に与えられると語ります。それは今日を生きる私たちにも同じように約束されています。そして私たちはこの神の愛を受け取り、そこに立って、生きようとする時にパウロが7節で語ったような人生を歩むことができるようになっていきます。それは自分の力で何かを成し遂げていくのではなく、神の愛と憐れみの中にあって主を誇る生き方なのです。