「信仰によって救われる 」

説教題:「信仰によって救われる 」
聖書:ルカによる福音書 第17章 11~19節
説教:吉村 光 修養生
賛美:「たたえよ救い主イエスよ」「信仰こそ」

ガリラヤとサマリアの間のある村に、10人の既定の病を患った人たちがいました。既定の病に罹った人は「汚れた者」として清くなるまではコミュニティに戻ることは許されませんでした。ガリラヤとサマリアそれぞれの場所で、病で居場所を無くした人々が集まってできたのがこの村だったのでしょう。イエスさまはその村を通られました。そして10人の「私たちを憐れんでください」という叫びに応えられました。イエスさまが眼差しを向けられ、イエスさまの声に10人が従った後に彼らは癒やされたのでした。

 癒やされてイエスさまのもとに戻って来て感謝したのは1人でした。なぜ10人の内1人の人がイエスさまのもとに戻って来たのでしょうか。その理由はイエスさまに言われた「行って、祭司たちに体を見せなさい」という言葉を中断させるような、彼にとって衝撃的なことが起こったからでしょう。15節にあるように、彼は大声で神を崇めながら戻って来ました。

 彼はただ自分の病が癒やされたことを知っただけではありませんでした。自分の病を癒したのが誰であるかを知ったから、その癒してくれたお方のもとに戻って来たのです。9人の中でも、イエスさまが自分の病を癒すきっかけとなったと認めた人はいたでしょう。けれども、イエスさまがきっかけだったということで考えが止まってしまえば、イエスさまのもとに戻る力にはならないのです。

 私たちは、正直、イエスさまは病を癒すお方であるけれど、もっと私たちに分かりやすい方法で癒してくれればいいのにと思うことがあるのではないでしょうか。

 今は医療が発達していますから、薬や治療を受ければ良くなる病気も沢山あります。先週、私はインフルエンザになったのですが、熱が出た翌日には病院に行って診断をしてもらい薬をもらいました。その薬を服用してゆっくり休む中でインフルエンザが徐々に治っていきました。まるでそこに神さまがいなくても、癒しが当たり前に起こることであるかのようにです。

 しかし、信仰はこのところにイエスさまを見出します。イエスさまがいてくださったことを思い出すと言った方が正確だと思います。

 イエスさまのもとに戻って来た人が、癒やされた時に真っ先に頭に浮かんだのは、誰も近寄りもしない自分たちが住む村に来てくださったイエスさまの姿だったのです。イエスさまが私たちのところに来てくださった。癒してくださったのはあのイエスさまだ。それが信仰です。

 実は、イエスさまはいつも私たちと共におられ、救いの手を差し伸べておられるのです。それに気づけないのは、ただ私たちがその御手を無意識のうちに見ようとしていないだけなのかもしれません。

 もっとこうして欲しい。神さまなら私たちの願う形で病気を治してよ。そんなふうに神さまに自らの思いばかりをぶつけているのが私たちではないでしょうか。そうではなくて、私たちは神さまが既に私たちに差し出している恵みに目を向けたいのです。

 考えてみれば、み言葉を前にして今ようやく、思い巡らすようにして神さまが私たちに注いでくださっている恵みを見ようとする私たち。この思い巡らす時を許してくださっていること自体が、神さまの忍耐という大きな恵みの中に私たちはいるということができるでしょう。

 だからこそ、心から感謝できるのは、今こうして主に感謝をする機会を与えてくださっている主の憐れみです。このような者に感謝する機会を与え、感謝を受け入れてくださる憐み深さ。懐の広さ。私たちはどれほどの憐れみをこの方にかけていただいたでしょうか。今はただ、こんな者をも愛してくださって感謝します。それで良いのです。それが私たちの信仰です。イエスさまが私を憐んでくださっている。この信仰で私たちは主を喜べます。私たちが主を喜ぶのは、感謝するのは、主が私たちにどんなに憐れみを持って接してくださっているか私たちが既に知っているからです。それこそが私たちを救う力です。今週も私たちは主のことばによってこの場所から送り出される者です。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

東京聖書学院教会

◆送迎バスの東村山駅の出発時間は10時10分です。

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