説教題:「イースターのおはよう!」
聖書:マタイによる福音書 第28 章5-10節
説教:斎藤喜樹 師
賛美:新聖歌201 「イエスはわがいのち」1,2,3,4 新聖歌257「キリストは生きておられる」1,2,3
復活された朝、イエスは墓にやってきた二人のマリアに「おはよう」とあいさつされました。僅か二日前に、むごい殺され方で死んで埋葬されたイエスが蘇ったという驚天動地のできごとに全く不相応な挨拶です。二人は悲しみのどん底にあり、少しでも慰めを得たいと願って、お墓にやって来ました。最初のお墓参りと言って良いでしょう。墓参りは亡くなった人を慈しむためにおこなうものです。それによって残された人は少しでも慰めを受けるのです。けれども彼女らが全く期待していない事が起こりました。地震が起き、天使と思われる人物が、墓の入口をふさいでいた大岩を取りのけたというのです。天使は彼女らに言います、「ご覧のように墓は空っぽです。イエスはよみがえってここにはおられません。他の弟子たちにそのことを伝えなさい」と。あまりの出来事に女性たちはガタガタ震えながら、それでも一縷の望みが与えられて、喜びつつ、他の弟子たちのところに走って行きます。
さて、その途上で、イエスと出会ったのです。墓から他の弟子たちがいる所までおそらく2キロくらいの距離だったかと思います。イエスは、お墓で彼女らと会わずに、道の途中でお会いになりました。他の聖書の箇所も読んでみますと、復活されたイエスが人と出会うのは墓場ではありません。墓の中でもありません。唯一の例外は、マグダラのマリアが墓の近くでイエスと出会ったという記事だけです。普通、幽霊というものは、墓場で現れたり、自分が死んだ場所で出てくるもののようですが、復活されたイエスは霊ではありませんから、弟子達のところ、どこにでも現れるのです。
聖書のイースターの記事を見ますと、イエスはエルサレムにいる弟子たちと会われましたし、エルサレムから百数十キロ離れているガリラヤでもお会いになりました。エルサレムの家の中、エマオの村への途上、ガリラヤ湖のほとり、エルサレムの近郊であるベタニア。また、パウロの記録によると、大勢人が集まっていた場所でもそのお姿を現しました。
これは一体何を意味するのでしょうか?復活のイエスはこの世界のどこででも、私達と会われるのです。決められた場所ではありません。またイエスの「おはよう」の挨拶は、私達の日常の生活の中で出会われるということを意味します。女性たちは天地がひっくり返った経験をしながらも、イエスは何事もなかったかのように「おはよう」と声をかけられるのです。新しい一日の始りを、新しい命の始りを、復活のイエスは約束され、祝福されるのです。
時に一日の始りは、苦しいものです。マリアらにとって、この朝も辛い時間であったのに違いありません。愛する人がいない一日をまた過ごさねばならないのです。悲しい、寂しい日がまたやってきました。私個人は、気分的には朝が悪いことが多いです。鬱を患っていた時は、朝が一番つらかったです。ああ、また一日が始まる。世の中が動いていく。自分はそれについて行かねばならない。勘弁してほしい。夜は闇に包まれ、皆休む時間ですから、自分も気分が休まるのです。しかし、復活のイエスは、そんな重苦しい朝を吹き飛ばされるのです。復活のイエスは、あなたがどこにいようと出会って下さいます。最悪の時にこそ声をかけて下さいます。そして新しい命の始りをスタートして下さるのです。
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