2023年04月09日 ルカ24:30~34 齋藤善樹師
主イエスが十字架で亡くなられた三日目、二人の弟子が悲しみの中、エルサレムからエマオという自分たちの村に向かって歩いていました。そこにイエスが現れ、二人に話しかけられますが、二人はイエスであることに気づきません。見知らぬ旅人に二人は自分の思いを語りました。ナザレのイエスが十字架刑で殺され大きなショックを受けて悲しんでいること、イエスに希望をもっていたのにそれが壊されたこと。それだけではなく驚くべき知らせも話しました。イエスの遺体が見つからず、天使が墓に居合わせた女性たちに、よみがえられてここにいらっしゃらないと言ったということです。
十分に二人の話を聴いたあと、今度はイエスの方から語られます。モーセを初めとする聖書の預言者たちはみな、救い主は受難を受けてから、神の栄光を受けることを伝えていたことを丁寧に話しました。二人はこの見知らぬ旅人の聖書の話を熱心に聴きます。目的地のエマオ村に近づいてきました。しかし、見知らぬ旅人はまだ先に行こうとしています。そこで二人は「もう日暮れ時です」と言ってその人を強いて引き止め家に迎え入れました。二人の本心は、もっとその人の話を聴きたかったのだと思います。この人と一緒にいると心が燃えるような気持がしたのです。3人が食卓についた時、二人はこのお客さまに食事の祝福を祈ってもらえるように願ったのでしょう。旅人は祈ってパンを割いて3人分に分けました。それを見ていた二人は体が震えるほどの感動を覚えました。このお方こそ、イエスだと悟ったのです。今までの時間、イエスがずっと一緒だった事、泣きながらお話をした時も、道々歩いていた時もイエスが一緒だった事に気づいたのです。すると突然お姿が見えなくなりました。二人は顔を見合わせ、すぐにエルサレムに戻って仲間にイエスがよみがえった事を伝えることを決心します。エマオからエルサレムに戻る道は喜びに心が躍るような時間だったでしょう。
さて、このミステリアスな話のさらにミステリアスな部分はエマオという村が今ではどこにあるか分からなくなっている事と二人の弟子が何者なのかよく分かっていないという事です。私たちはこのように理解できます。この二人の弟子というのはあなたと私を表わしています。そしてエマオの道は私達の人生を表わしています。人生の途上、イエスご自身が私達に近づいて下さり、私たちを励まして下さるのです。イエスの存在は私の心を燃やします。砂を噛むような人生でも空しい人生であってもイエスの復活の命が私達に触れる時、冷え切ってしまった私の心をもう一度燃え立たせてくれるのです。