2023年04月02日 第一コリント2:2、マルコ15:25-28、(33-41) 齋藤善樹師
イエスは木曜日の晩に捕えられ、裁判を受け、むち打ちなどの拷問を受けられ、翌金曜日の朝に十字架に釘付けにされました。悲惨で残酷な情景です。致命傷は与えられません。そのまま十字架を地面に立てて、放っておくのです。出血と疲労のために衰弱して死ぬまで、何時間でも何日でもかけたままにしておくというローマ式の処刑法でした。これは本人の苦しみのためと見せしめの為でもありました。この身の毛がよだつ恐ろしい死に方を見て人々は犯罪者にならないように、特にローマに逆らわないように警告されるわけです。イエスは犯罪者の一人として殺されました。そこには名誉も見るべき姿もありませんでした。
聖書はこのイエスの受難が神のご計画であったことを伝えています。すでに何百年も前に書かれた書物に十字架の情景が描かれていますし(イザヤ53章)、イエスご自身、ご自分が裏切られて、引き渡され、十字架に架けられることを予言なさっていました。十字架は神がご自分の命をもって私たちが生きるようにしてくださったしるしです。
しかし、それならもっと穏やかな方法でなさる事は出来なかったのでしょうか?イエスの受難は身体的にも精神的にも大変な苦しみでした。それは、神が私たちの苦しみの責任を負って下さったように思われます。この世界は苦痛に満ちています。戦争、病、貧困、災害、怒り、憎しみ、恐怖、孤独など、自分では選びようのない悲しみで満ちているのです。これは、神が造られた本来の世界の姿ではありません。神は愛をもってこの世界と人とを造り、「これで良し」とされたのです。ところがこの世界はあまりに悲惨な事が多い世界となってしまいました。ですからこんな哲学も生まれてきます。人間などというものは生まれてこなかった方が良かった。否、いっその事この世界そのものがなかった方が良かったのではないか。しかし、神はこのとんでもない世界を、このどうしようもない人間を愛され、造り変えようとなさるのです。御子の苦しみはこの世界の痛みの責任を取って下さるその神のお姿のように思えるのです。十字架はあなたに新しい命を与えようとなさる神の愛を表わしています。十字架で現わされた神の愛は、あなたが人を愛し、赦し、共に生きていけるように力を与えるのです。