イエスに従う道

説教題:「イエスに従う道」
聖書:マタイによる福音書 第8章 18~27節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌138番「よろずのもの」1,2,3,4 新聖歌248番「人生の海の嵐に」1,2,3

 クリスチャンになるということは素晴らしいことですが、私たちの忘れてならないことは、クリスチャンになるとはイエスに従う者になるということです。イエスのもとになおも大勢集まっている群衆を見て、イエスは湖の向こう側に渡ろうとされました。その時に、一人の律法学者がイエスのところにやって来て「先生、あなたの行くところ、どこへでもついていきます」と言いました。イエスは「狐には穴、空の鳥には巣があるが人の子には枕するところもない。」と冷ややかとも言える言葉で答えられます。私についてくるというのなら、その覚悟を持ちなさいということでしょうか?確かにそれはあるでしょう。枕するところがないというのは、イエスにはこの地上には帰るべき家がないということです。「人生とは旅」だと誰かが言いました。人は生きている間、旅をしているのです。家やホームと言われる場所も一時的です。イエスに従うというのは、その事を確かに自覚して、イエスと共に生きることです。イエスに従う者にとっては、イエスがおられるところがホームとなるのです。

 もう一人の人(弟子)がイエスに申し上げました。「まず、父を葬りに行かせてください。」イエスはずいぶん厳しいことおっしゃっいました。親の葬式に出たいと言っている人に死人の事は死人に任せなさい言われたのです。家族のことは放っておけという意味でしょうか?そんなことはないでしょう。イエスは人々の葬儀に幾度も出られていますし、ペテロの姑を癒されました。家族を大事にするというのはイエスの行動を見ても明らかです。

 注目すべきは、イエスの言葉は、「私に従いなさい」という言葉から始まっているという事です。一方、この弟子は、「まず、父を葬り行かせてください」から始まっています。 それからあなたに従いますという事でしょう。そうではありません。イエスに従うというのは今、生きているあなたがイエスに従うことです。 私達の前にある選択はイエスに従うか否かでではなく、イエスに従うためにはどの選択がベストかという事です。今、舟に乗るという事がイエスに従うことにおいてベストなのか、或いは家へ帰って父親の葬儀を手伝ってやるのがベストなのか考えるべきなのです。

 さて、弟子たちは、イエスに従って舟に乗り込みました。ところが、突然嵐に襲われたとあります。漁師が、舟が沈んで死にそうですと叫ぶのですから、よほど危険な嵐だったのでしょう。イエスに従う道というのは常に平穏無事という事ではありません。時に大きな嵐が起こります。昔からこの物語になぞらえて、教会というものが舟に譬えられていたようです。イエスへの信仰を持ってイエスに従うとはイエスと一緒に舟に乗るという事です。外から眺めることではありません。時に嵐が来ます。右に左に上へ下へと大波で揺られて、自分の命もこれまでかと感じることもあります。教会なら揺れないと思ったら間違いです。教会の舟も揺れます。しかし、安心して良いのはこの舟にはイエスが共におられるという事です。嵐を鎮めて下さる方がおられるのです。イエス様は言われます。「なぜ恐れるのか!信仰の薄い者たちよ」「薄い」という言葉は本当にちっぽけと言った方がぴったりのようです。右往左往し、恐れる私達に、声をかけて下さり、嵐を鎮めてくださいます。私達の信仰はなんとちっぽけなものでしょう。ちょっとしたことでもう終わりだなどと思ってしまう。安心して良い。私の人生という舟にはイエスがおられます。イエスは嵐の最中、スヤスヤとお眠りになっていた。私達もイエスと一緒に嵐の中だって、スヤスヤと眠ることもできるのです。

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