説教題:「イエスの尽きることのない愛」
聖書:マタイによる福音書 第15章 29-39節
説教:齋藤 喜樹 師
賛美:新聖歌 第208番「イエスは愛で満たす」 第355番「主と共に歩む」(1,2,3,4)
 イエスはティルスの町を去って、ガリラヤ湖のほとりに来られました。そこに大勢の
病人を伴った群衆が集まっていました。イエスは病人たちをお癒しになり、たった7
つのパンと少しの魚で4,000人の群衆を満腹させました。14章にそっくりのエピ
ソードです。5つのパンと2匹の魚で5,000人を養ったという話です。パンの数と魚の
数、人数が少し違うだけですが、大きな違いは群衆の顔ぶれです。前回はユダヤ人が
主でしたが、今回はイスラエルの領土の外であり、群衆の多くは非ユダヤ人であった
のです。主イエスは、ユダヤ人、異邦人の区別なく憐れみをもって助けられました。
 さらに、15章の特徴はイエスの「かわいそうだ」という言葉です。イエスは弟子た
ちを呼んで、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物が
ない。空腹のままで解散させたくない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない。」と
言われました。他者に共感し、かわいそうに思うことは人間の大切な機能です。自分
の愛する人が苦しむ姿を見て胸が締め付けられるように可哀そうに思う心です。とこ
ろが世の中は人のことをかわいそうと共感する気持ちが薄くなっているのかもしれま
せん。現在、世界のあちこちで戦争や犯罪のニュースが毎日のようにメディアに乗っ
ています。傷つける人は可哀そうなどと思っていないのでしょう。爆撃を命じる政治
家は何を感じているのでしょうか。可哀そうだという気持ちを失った人間が作り出す
国や未来はどんなものなのでしょうか。
 イエスは厳しい面も持った方でしたが、この上なく優しい方でした。病人を三日も
続けて癒して、くたくたになっているだろうけれども群衆を見て、可哀そうだと言わ
れたのです。この残酷な世の中に真正面から立ち向かうようにイエスは人を癒し続
け、語り続けられました。それは、この世界には神の愛が確かにあることを示そうと
される働きでした。イエスの時代から、人々は病み、抑圧され、互いに争ってきまし
た。その中で神の愛を信じることは奇跡のようでさえ感じます。
 イスラエルとガザの問題は痛々しいことです。イスラエルの行動は、過去の大きな
トラウマが影響しているとしばしば言われます。第二次世界大戦中、ヨーロッパの全
ユダヤ人人口の三分の二にあたる600万人のユダヤ人が殺されました。悲しいことに
生存者の多くは信仰を捨てました。けれども同時に、信仰を守り通した人々も大勢い
ました。 聖書が証しする神は愛の神です。けれども、圧倒的な苦難の中でどのよう
にして愛の神を信じ続けることができるのでしょう?私たちの頭では神の御心の全容
など分かりません。それでも神は私たちのことを愛してくださり、あなたが神に愛さ
れていることを神は知って欲しいと望んでおられます。そのために神は独り子を私た
ちのところに送り、神は愛を注がれているのだということお示しになったのです。
 イエスは父なる神の御心をご自分の心として、必死に人に尽くされました。もちろ
ん人の身体をもった地上のイエスには限界がありました。けれどもこの世界を愛して
いる神がおられることをイエスは身を持って懸命に現わされたのです。傷んでいる
人、失望している人、差別されている人、世界の理不尽さを繕うようにイエスは働か
れたのです。
 そして、その働きは私たちにも託されています。私たちのような貧しい器を通し
て、神はご自分の愛を示されるのです。私たちの人生の最大の目的は愛することで
す。人を憐れむことです。その目的を目指すときに神は私たちを助け、励まし、強く
し、神の愛のわざに加わることができるようにしてくださるのです。