説教題:「救いの喜び」
聖書:ルカによる福音書 第15章 11-31節
説教:吉村 光 修養生
賛美:新聖歌 第19番「救いをなし給う」 1,2,3,4 第216番「ここに真の愛あり」1,2,3,4
放蕩息子は聖書の中でも有名な話です。弟息子は、父の家を飛び出し、好き放題遊んで全ての財産を失います。弟は家に帰るのですが、父は弟を怒るどころか、抱きしめて、高価な服を着させ祝宴を開きました。このことを知った兄は激しく怒りました。何よりも父が弟を赦し愛したことに腹を立てました。兄は父の言いつけを守って、父に認められたい一心で生きて来ました。けれども父はだらしない弟を愛しました。兄は父からの愛を弟に奪われたと思い、そのことを怒りで表現しているのです。
家の中に入ろうとしない兄を見て父親はなだめにきます。父の兄への愛は、弟に対する愛と変わらないものでした。けれども、兄にはそれが分かりませんでした。兄は父の家で父に仕えてきました。実のところ、彼にとっては、父の言いつけを守ることが全てとなっていました。父に愛されるために、父の理想通りに生きて完璧でなくてはならないと思い、そのうちに父の愛を見失ってしまったのです。
人生に喜びなんていらない。そういう人はいないと思います。誰しも、生きていくことを心から楽しみ喜びたいし、愛されたいと思っているはずです。時には自分で喜びや楽しみを見つけようと弟のように探してみたり、兄のように誰かに認められたくて愛されたくて一生懸命になります。けれども、どこかで行き詰まりを感じたり、もうダメだと思うことがあるのではないでしょうか。
兄も弟も、自分のやり方でどうにか心に喜びを、愛を満たそうとしました。けれども、二人とも結局それらを得ることはできませんでした。しかし、弟は父の家に帰って父に抱きしめられた時に愛を知ったのです。人間には理解不能な父の愛です。弟は父の財産を、父が生きている内に「分けてくれ」と言いましたが、これは、父親に対して「あなたは私にとって死んだも同然の人です。私が生きていくのにあなたは必要ありません。縁を切ります」と宣言したも同然のことです。誰が、こんな息子を赦せるでしょうか。この父の愛というのは人間の常識には当てはまらないのです。それが、神の愛です。
そして、この人知を超えた愛は弟だけではなく兄にも向けられていました。しかし、兄は罪人たちが父に受け入れられることを認めることができません。いえ、彼らに限らず、人間というものはそういう性質をもっていると思います。自分だけがもっと愛される存在なのだと心で思っているのです。つまり私たちは気づかないうちに自己中心的になっているのです。
自己中心は罪の根本です。罪は神の愛を見えなくします。自分のことばかり考え周りのことを考えられなくなるからです。兄は弟のように自分の罪に気づかなければ父の愛に気づくことはないだろうと思います。兄に例えられるファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の愛に気づかず、神の愛を伝えるイエスさまを十字架につけてしまいます。罪人を赦す神の愛などあるものかと十字架につけたのです。つまり彼らの自己中心は、神の御子を殺すほどに暴力的になったのです。「十字架につけろ、十字架につけろ」。周りの人たちまでも巻き込む暴力となりました。これこそ人間の罪の究極の深みです。死というところまで人の罪は行き着きます。このような人間の罪の深い深い闇を目の当たりにした神はどうされたでしょうか。そうです。神はそれでも人間を赦されました。私たちの罪の大きさをもってしても神の愛は変わりませんでした。死をもってしても神の愛は変わることはないのです。それはイエス・キリストが死から復活されたことに表されています。私たちの罪がどれほど深くても、神の愛はその罪の深みから私たちを神の懐へ抱き寄せてくださるのです。
キリスト教でいう救いとは、この十字架に表された神の愛を心から喜ぶことです。私たちは、神の愛を見失わないように自分で握りしめるのではありません。私たちが神の愛を見失い、喜びに生きれないときにも、神が私たちを愛で包み込んでくださっているのです。神の愛を心から喜ぶことこそ、私たちが神に仕えることであり、私たちの礼拝となるのです。