前に進むペテロ

説教題:「前に進むペテロ」
聖書:マタイによる福音書 第14章 22-33節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:新聖歌 第7番「主のみいつと」 1,2,3,4 第341番「恐れなく近寄れ」1,2,3,4

 ここで私たちの目を惹くのはイエスが水の上を歩くという一見荒唐無稽な話のようにも思える奇跡です。荒野で5000人以上の人が、たった5つのパンと2匹の魚で満腹したという出来事があった直後にイエスは弟子たちを強いて舟で向こう岸に渡るように指示され、イエスご自身は群衆を解散させて、独り祈るために山に登られました。

 弟子たちは湖の上で逆風のため何時間も漕ぎあぐねていました。ところが彼らは夜明け前の午前4時ころ、人影らしいものが近づいてくるのを見て恐怖に陥り、幽霊だと言って叫び声をあげます。イエスは、すぐに「安心しなさい。私だ。怖がらなくてもよい」と声をかけられます。その時、ペテロは「本当にあなたでしたら、私にお命じになって、私も水の上を歩かせてあなたの方に行かせてください。」と言いました。「来なさい」との答えを貰ったペテロは水の上に踏み出します。ところが何メートルか進むうちに風や波に気が付いて恐怖に陥り、沈み始めました。イエスは直ぐに手を伸ばし、ペテロと一緒に舟に上がりました。

 ペテロは2度も恐怖を味わいました。まず湖上で正体の分からないものをみて幽霊だと思った恐怖です。人間は誰でも恐怖心を持っています。しばしば恐怖心は私たちを危険から守ってくれます。過剰になってしまうこともありますが、恐怖心には意味があるのです。恐怖の対象というものはしばしば実体がありませんが、逃げたくなったり、震えるほど怖い思いをします。過去の心の傷や心の繊細さが恐怖に結び付くのです。イエスの初めの言葉の「安心しなさい」は聖書に何回かできてきますが、ほぼすべてイエスご自身の言葉です。恐怖のただ中にいる私に「勇気を出しなさい、安心しなさい」と言われる方がすぐ近くにおられることは本当に幸いです。次のイエスの言葉は「私だ」です。英語の訳に「I am here」というのがありました。私がここにいる。イエスは私たちの恐怖心のただ中におられるのです。恐怖心などない方がいいと思いますが、そこにイエスはおられて「恐れるな」と言われるのです。恐怖心を持つことには意味があって、イエスの語りかけを聞くためにあるのかもしれません。

 次の恐怖はペテロだけが経験したことです。勇気をもって歩き出したペテロは波と風を見て恐怖にかられました。途端に沈み始めます。私たちもこんなことがあるかもしれません。恐怖を克服したと一度は思ったけれども、やはり怖いものは怖い。前に進めなくなるのです。イエスは彼を引き上げて言われます、「信仰の薄い者だ。なぜ疑ったのか?」。人から非難される時、「なぜ」という言葉は私を戸惑わせます。ペテロも何故?と言われて、自分はなぜ疑ったのだろうと自問したかもしれません。人間である限り、信仰に疑いはつきものだと思います。逆に言えば、疑いがあるからこそ、信仰が存在するのです。疑いは神さまが吹き飛ばしてくださいます。私たちに求められているのは信仰を大きく持つことです。信仰が薄いと訳されている言葉は、英語ではlittle faith 小さな信仰と言っています。イエスは私たちのことを見て「小さな信仰の者たち」とため息をつかれます。大きな信仰は無鉄砲な信仰でも無計画な信仰でもなく、大きな神さまを受け入れる大きな器のことです。信仰はあなたを大きくします。私たちがへりくだり、イエスに助けを求める時に、イエスは私たちの手をとって、私を水の底から引き揚げ、私たちの信仰を大きくし祝福してくださるのです。

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