説教題:「あなた方の手で食物を」
聖書:マルコによる福音書 第6章30-44節
説教:山田智朗 師
賛美:新聖歌23番「父の神よ 夜は去りて」1,2,3 新聖歌392番「主の愛の汝が内に」1,2,3
この個所は、有名な「五千人の給食」というイエス・キリストの奇蹟を描いた物語です。
1.イエスが弟子たちと共にテベリヤ湖(ガリラヤ湖)の向こう側に行った理由
「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである(マルコ6:31)。
イエスが弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸の「さびしいところ」に行かせたのは「休むため」、神さまの前に静まるため」でした。
2.ところが群衆がそれと知ってついてきた
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気付き、方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いた(マルコ6:33)。
群衆がついてくることはイエスにとって「想定外」のことであったようです。
私たちの人生では(特に被災地のような場所では)、どんなに緻密に計画を立てても、計画通りにことが進むということはまずありません。決して計画を立てることが無駄だという事ではありませんが、計画通りに進まないことを見てがっかりしたり、落ち込んだりするよりも、その状況の中で神さまの恵みを見つけ出して感謝を献げることを心がけるようになりたいと思います。
3.群衆は弱っていた
なぜイエスは勝手についてきた群衆を追い返さなかったのでしょうか?。
飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた(マルコ6:34)。
イエスを追って来た人々の多くは「病人」だったようです。しかも予定外の寂しい所に来てしまったため、寝る場所も食べるものもありませんでした。
このような人々にイエスはまず、「いろいろと教え始められ(マルコ6:34)」「神の国のことを語り聞かせ(ルカ9:11)」ました。
しかしここでイエスは同時に「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか(ヨハネ6:5)。」とフィリポに問い、群衆の「生存に関わるニーズ」にも応えようとします。
イエスの教えは、決して空論に終わることはありません。現実の世界で現実に苦しんでいる人々の目前のニーズに目を向けることは聖書がもっとも重要視していることです。
4.「あなたがたの手で食べ物をあげなさい(マルコ6:37)」
弱っている人々を助けることはイエスにとって決して不可能なことではなかったはずです。どんな方法(奇蹟)によってでもイエスは、群衆を助けることはできたのです。しかしイエスはここであえて「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と弟子たちにチャレンジしました。
しかし弟子子たちの考えは、「群衆を解散させめいめいで食物を買いに村々へ行かせてください」でした。これは明らかに自己責任論です。
しかしイエスは弱っている人々を見た時、あなた方は何を感じるのか、すべてを他に(神さま?、政府?、金持ち?)任せて、責任を回避するのか?」と問うのです。
今、被災地にはたくさんの「弱っている人々」がいます。その被災者たちに対して私たちは「めいめいで食物を買いに村々へ行かせてください」というのでしょうか。イエスは私たちにお語りになります「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と。
5.みんなの者は食べて満腹した。
「人々は皆、食べて満腹した(マルコ6:42)」。
弟子たちが信じてイエスと共に行動した時、そこに奇蹟が起こりました。五つのパンと二匹の魚はすべての人々に行き渡り、さらに12の籠にいっぱいのパンが残ったのです。
災害が発生した時、被災地では「人の罪や弱さ」が現れる場面がたくさん起こっていますが、それと共に「苦しみの中で助け合い、譲り合うことによる奇蹟」をたくさん見ることができます。そしてこの奇蹟は「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」というイエスの言葉に応えた者だけが見ることのできる奇蹟です。災害時にキリスト者が被災者を助けるのは決して、「後になってから伝道しやすくするため」ではなく、それが「聖書が命じる、キリスト者が取るべき行動」だからであることを見失ってはなりません。