説教題:「断食とぶどう酒と革袋」
聖書:マタイ福音書 第9章14-17節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌8番「七日の旅路」1,2,3 新聖歌324番「主と主の言葉に」1,2,3,4
この短い段落でイエスは、表題の三つ、実際はもう一つ「継ぎ当て」の譬えを合わせて4つの事を語っておられます。断食とは宗教上の修行のようなもので、その目的は食を断ってその思いを神に向けて、祈りなどに集中するためです。真面目な人たちは、ヨハネの弟子たちのように断食を習慣的に行っていましたが、イエスの集団は断食をしていなかったようです。それで人々は何故断食をしないのかと質問したのです。それに対してイエス、花婿が一緒にいる時は、人は断食などしない、大いに祝うのだとお答えになりました。今は断食の時ではないとおっしゃったのです。花婿とは、イエスご自身を指しています。神の子が人類のために花婿のようにしてこの世界に来られた。これを喜ばないで何を喜ぶというのでしょう。断食の意義は分かります。しかし、神の子イエスがいらっしゃっている間は喜びの時なのです。
断食に関連してイエスは継ぎ当てとぶどう酒と革袋の話をされます。新しい端切れは洗濯などすると縮みます。ですから、服に新しい端切れでつぎ当てをすると縮んで服をダメにしてしまうのです。また新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきです。古い革袋はぶどう酒を入れた後、ぶどう酒は発酵するのでガスが出て、伸縮しない古い革袋はガスの膨張に耐えられず、張り裂けてしまうのです。これは譬えです。新しいものを受け入れるには新しい容れ物が必要だということです。イエスの教えは新しいものです。古い考え方では受け止められません。新しい考え方で受け止める必要があるのです。あなたの古い革袋は何でしょうか。ある人は自分の非を認めないが、他人の非を大いに責め立てるという古い革袋を持っています。人を赦せというイエスの新しい教えを受け付けることができません。
この新しい皮袋、新しい端切れの核となるものは何でしょうか?それは「喜び」です。この喜びが与えられているから、私達は断食をする必要がないのです。花婿がここにおられるのになぜ悲しい顔をして断食をしなければならないのでしょうか。確かに世の中には、断食しなければならないような悲しいことが多く起こります。しかし、私達の内には新しいぶどう酒が与えられており、希望がある事を忘れないでいましょう。だから喜んで良いのだと。
ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは、イエスの一派はなんと能天気な連中だろうと思ったかもしれません。確かにイエスの集団は常に何かしら明るさがあったようです。けれども、実はイエスの喜びは能天気ゆえの喜びではありませんでした。イエスは人生の苦悩というものを知っておられました。イエスはご自身がつけられる十字架によって、罪の汚れ、恐ろしさ、世界の残酷さを知っておられました。けれどもイエスは敢えて喜ぶことを教えられたのです。人生には悲しみや苦しみに勝る喜びがあるのです。
新しいぶどう酒とはイエスの新しい教えであり、新しい喜びです。それを受け入れるのには新しい革袋が必要なのです。私たちの努力だけでは私たちは古い革袋のままです。けれどもイエスの新しいぶどう酒は、入れ物である革袋さえ変化させます。私たちがイエスの言葉を受け入れるならば、その言葉は私たちに働きかけ革袋である私たちを変えていくのです。固い柔軟性のない、もろい革袋が柔らかい柔軟性のある革袋へ変えられるのです。ぶどう酒はその中で豊に熟成されます。私たちは新しいぶどう酒をいっぱいに入れたいと思います。張り裂けても良いかもしれません。そうしたら、イエス様はまっさらの革袋を作ってくださるはずです。