生きるために

説教題:「生きるために」
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第2章19-20節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌 18番「おお御神をほめまつれ」」 新聖歌 257番「キリストは生きておられる」

 自分が新生したクリスチャンであることを表明し選挙に臨んだ大統領でした。彼の信仰はその生涯を貫いて政治家として、また人権活動家として大きな影響を与えました。

 クリスチャンの信仰は、その人の生き方を変えるものです。人生は時に大きな重荷を伴うものですが、私たちはキリストと共なる人生を歩むことができるという希望が与えられています。パウロは神に生きるために律法に死んだのだと言っています。それは私たちを不自由にする偏った律法に死んだということです。もちろん、社会のルールは必要なもので彼は無法者になったという事では勿論ありません。私たちを縛り、福音から遠ざける律法に死んで自由になったという事です。律法とは神の好意を得る為のものだと考えられていました。けれども聖書は、神はあなたが罪人の時からこよなく愛していると言うのです。もちろん、神は罪を憎む方であなたが罪を犯した時は、神は悲しまれます。しかし、それでも愛しておられるのです。

 さて、あなたにもあなたを縛っている律法があるはずです。その律法は人に気に入れられようとする律法かもしれませんし、あなたの不安を解消するための自分の中にある決まり事があるかもしれません。パウロはそのような律法に自分は死んだと言うのです。これはパウロにとって大転換でした。以前の彼にとって律法は人生最大の優先事項でした。けれどもイエス・キリストを通して天の父なる神を知った時、彼の人生の価値感は変わりました。イエス・キリストを知ってからは、今まで重んじていた彼の大切なものは塵芥のように思えたというのです。彼はキリスト共に十字架につけられたという表現をしています。イエスが私の罪のために死なれたということは、私の古い自分も一緒に死んだということです。古い律法に縛られていた自分が死んだということです。

 私達もイエスを信じた時にイエスと共に十字架上で死んだのです。そしてイエスと共によみがえったのです。しかし、その割にはまだ自分は自由ではないと感じられることがあるかもしれません。それは古い自分の残滓があるからです。この地上にいる限りは罪や弱さの残滓がありますから、聖霊によってそれに気づかせられるたびに自分は律法に死んだのだということを再確認する必要があります。

 パウロの言葉はさらに続きます。自分がいま地上で生きているのは、「私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」この「真実」という言葉は口語訳や新改訳では「信仰」という言葉になっています。一方は神の子の私たちに対する真実と訳し、一方は、私たちの神の子に対する信仰と訳すのです。実は両方とも正しい訳なのです。今、私は生きている人生がどのようなものであっても、イエス・キリストを知った人生は、もはや私のものではなく、私を愛して命を献げてくださった方への信仰の人生となるのです。そして私たちの信仰の根拠は神の真実にあります。永遠に不変の神の真実です。だからこそ、私たちは信仰を持つことができるのです。パウロはピリピ人への手紙でこう言っています。「私は前に向かって背を伸ばし、目標のものを捕えようとしている。それはキリストが私を捕えてくださったからだ」と。キリストが私のうちに生きておられるのは、私の努力や悟りではなく、キリストの真実が私を捕え、私の人生に生きて下さるからなのです。

https://www.youtube.com/watch?v=0MwUjJKKPQ8
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