説教題:「必要なことは一つ」
聖書:ルカによる福音書 第10章38~42節
説教:吉村 光 修養生
賛美:新聖歌 第2番「たたえよ救い主イエスを」1,2,3 第251番「主イエスの御側に」1,2,3,4
東京オリンピック招致のプレゼンで「おもてなし」という言葉が印象的でした。38節
を読みますと、マルタという女性も旅するイエスさまたちをもてなしました。マルタ
は、イエスさまの旅の疲れをとってあげたい、精一杯のおもてなしをしたいという気
持ちで満ち溢れていました。
しかし、彼女の心が次第にもてなしどころではなくなったことが分かります。その
原因は妹マリアでした。マリアは、イエスさまご一行を迎え入れた家の一員なのに、
もてなしをしていませんでした。マリアはイエスさまの足元に座って、その話を聞い
ていました。それを目撃したマルタの心は、さまざまな思いで掻き乱されていきまし
た。
なぜ、人は思い煩うのでしょうか。一つは、自分が思った通りにことごとが運ばな
い時に、そうなるのではないでしょうか。そのような時には、私たちのすることがど
んなに的を得て正しくても、思い煩いが起こってくるのです。いえ、むしろ自分の中
では、私がやっていることは当然正しいと思っているからこそ、周りの人にその当然
が裏切られた時に、思い煩いは頂点に達していきます。ところで、マルタという名に
は「女主人」という意味があります。マルタには一家の主人として、もてなしを導く
という自負がありました。何とかもてなしを成功させなければいけないという思いが
マルタを煩わすのです。そしていつの間にか、もてなす旅人に対しても自分が主人に
なっていきました。マルタがイエスさまにマリアのことで文句を言ったことは、まさ
にその表れです。そのようなマルタに、主は「必要なことは一つである」と言われま
した。
マルタにとって何が必要だったのでしょうか。その答えは、マリアが選んだことで
あると主は言われます。マリアはイエスさまの足元に座わり、イエスさまの話を聞い
ていました。すなわち必要なこととは、イエスさまがマルタの「主」となってくださ
ることです。私たちの主人は、私たち自身ではなく、主イエスです。
主は私たちにも「必要なことは一つ」だと語られます。主は、私たちにとって必要
なことは一つであるから、その他のことは必要ではないとは言われません。むしろ、
主が示される必要な一つのことがあるからこそ、私たちに与えられている全てのもの
が豊かになっていくのです。マルタのおもてなしは、主の言葉によって、豊かなもの
となるのです。私たちも、主の語りかけを通して、私たちのうちに与えられた、おも
てなしに生きることに導かれています。このおもてなしとは、人々にまた主に仕える
ことです。おもてなしとは私たちのうちに与えられる人々や主に対する思いやりで
す。
主イエスを「主人」とすることは、決して強制されるようなことではありません。
つまり、私たちは、頑張って、一生懸命に、思い煩わないように生きるのではない、
と言うことです。人はふとすると、思い煩う性質をもっていると言えるでしょう。だ
からこそ、主が私たちに「必要なことは一つ」だと語りかけてくださるのです。私た
ちはこの主のみことばによって豊かに生きるのです。
私たちは、マリアが良い方を選んだように主の足元に座るものです。また、マルタ
がイエスさまに訴えたように、主のそばに行く者です。日曜日を主日と言いますが、
主が復活された日に私たちは毎週礼拝をささげます。私たちが主を褒め称えるのは、
主が死から復活され、永遠に私たちの主となられたからです。日曜日ごとに主からみ
ことばを頂き、歩み出していけることは何と幸いなことでしょうか。