神を喜ばせるために

説教題:「神を喜ばせるために」
聖書:テモテへの手紙二 第2章 1~7節
説教:松島基紀 修養性
賛美:新聖歌427番「ただ主を」1,2,5 新聖歌394番「成し給え汝が旨」1,2,3,4

 今日の箇所では3節のところで、「苦しみを共にしてください」と言う言葉が出てきます。これは先月開いた箇所(2テモテ1:8)にも書かれている言葉であり、同じ流れの中でパウロがテモテに勧めていることがわかります。しかし今日の箇所は、苦しむことも含めながらより具体的に私たちキリスト者がどのような歩みをしていくべきかを、たとえを用いながら私たちにも教えている箇所です。その中心にあるのは「神を喜ばせる」と言うことです。

 まずパウロが用いるのは兵士のイメージです。4節には「兵役に服している者は、生計を立てるための仕事に関わることなく、ただ自分を召集した者を喜ばせようとします。」と、兵士たるキリスト者の生き方のスタンスが示されています。

 私たちが神を喜ばせようとする時に忘れてはいけないことは、究極的には「神が私たちを喜びとしてくださる」と言うことです。もし私たちが自分が頑張ることだけで神を喜ばせようとするなら、そこで直面するのはむしろ自分の足りなさや罪深さでしょう。しかし神が私たちを喜びとしてくださることを覚える時、私たちは自分の力に集中するのではなく、私たちを受け止めてくださる神に集中することができます。これが1節にある「恵によって強められる」ということです。神を喜ばせることはここから始まっていくのです。

 次にパウロが用いるのは競技のイメージです。ここでは規則を守ることについて述べられています。神を喜ばせようとする私たちにも規則があります。それはイエス様が教えてくださった愛の律法です。この規則は私たちを縛るものではなく、むしろ私たちを生かし、喜びに導く恵みの規則です。これに従っていく時に、私たちは神を喜ばせることができるのです。そしてこの競技は順位をつけられることも、失格になることもありません。その中で強められながら、歩むことができる恵みの競技なのです。

 最後に出てくるイメージは農夫のイメージです。ここでは来るべき収穫について述べられています。これは競技において受ける栄冠のイメージとも重なるところです。私たちが神を喜ばせる歩みを続ける最後の時に、必ず私たちはその収穫物に預かることができるのです。私たちの歩みは決して無駄になることはなく、報いられます。それは栄光の冠として私たちに表されるのです。これはなんという幸いな希望でしょうか。

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