説教題:「安息日問題①」
聖書:マタイによる福音書 第12章1-8節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:新聖18番「おお御神をほめまつれ」1,2,3 新聖歌 248番「人生の海の嵐に」1,2,3
ちょうど、私達はゴールデンウイークの週の中にいますが、安息日とは休日のことです。しばしば、主イエスは安息日のことでパリサイ派の人々や学者たちと論争になりました。その日は安息日で、イエスと弟子たちは麦畑を通っていました。弟子たちは空腹で麦の穂を摘み手でもんで食べていたというのです。当時の法律では飢えている通行人や旅人が他人の畑の作物を食べるのは赦されていました。パリサイ人らがとがめたのは、その日が安息日、つまり労働してはいけない日だったからです。法律上麦の穂をとって中の麦の実を取り出すというのは労働に当たることでした。安息日というのは働かなくてよい日ではなく、働いてはならない日だったのです。
そもそも安息日は良いもの、大切なものとして制定されました。その由来は創世記の天地創造までさかのぼります。神は6日を費やして世界を創造され、7日目に休まれたとあります。神はこの日を休息の日、聖なる日としました。英語のホリデーの語源と言われます。そして後にこれが十戒の一つとして制定され、厳しい掟となったのです。
クリスチャンにとっての安息日は日曜日です。人間にとって休息の時間は必要であり、また聖なる日も必要なのです。過労のために心も体も病んでしまう人は少なくありません。人間は休息を取るように造られたのです。安息日とは神が祝福し、聖なる日とした日です。聖なるとは普段と違う特別な日という意味です。私達は、同じ調子でダラーッと続けるのではなく、アクセントをつけて生活をするほうが生き生きと生活することが出来ます。安息日は神に祝福された日です。そして、この日によって他の日々も祝福を受けるのです。
日曜日の礼拝とはただ説教の聴くためだけではなく、神を第一とすることを再確認し、感謝し、賛美を捧げ、献身の思いを表す特別な日なのです。この事によって私達の日常生活が祝福されるのです。ところが人間は自分の力で安息日を支配しようとし、掟を守ること自体が目的となってしまいました。
パリサイ人が論議してきたので、イエスも応戦しました。二つの前例をあげて、必ずしも安息日の律法が絶対ではないことを言われます。一つは ダビデの話です。ダビデがまだ若いころ、彼も仲間たちも空腹で神殿に入って食べ物を求めました。しかし、そこには神に供えるパンしかありませんでした。そのパンは祭司しか食べることが出来ません。しかし、祭司は敢えてダビデたちにそのパンを食べさせたのです。もう一つの例は、通常に行われている祭司たちの労働です。一般の人は仕事を休んで、神殿や会堂で礼拝を献げるのですが、祭司やレビ人、ラビと言われる人たちは仕事をしているのです。
さて、イエスは律法などというものは杓子定規に守らなくてもよいということを言われたのでしょうか?そうではなくて、イエスが言われたかったことは本来の安息日の意義でした。安息日の目的は体と魂の休息であり、神との豊かな交わりです。日常ではない非日常を作り出し、私達の人生を意義あるもの、生き生きしたものにするためでした。人を殺すためではなく、人を生かすためでした。そのような当たり前の事が見えなくなっているのが人間の姿です。イエスここで旧約聖書の言葉を引用されました。「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」(ホセア6:6)。神が安息日に私達に求めるのは思いやりであって、神へのいけにえではないのです。安息日の中でこそ、この慈しみを表すべきなのです。それが私の魂の休息の日となり、聖なる日となるのです。
もちろん互いへの思いやり、神への愛は日曜日だけのものではありません。しかし日曜日に神の前にたち、キリストの心をもって生きていく事を決心し再び世界の送り出されていくのが私達の安息日なのです。