説教題:「御心を実現する祈り」
聖書:マタイによる福音書 第15章 21~28節
説教:角田利光 師
賛美:新聖歌198番「GOD BLESS YOU」1,2、新聖歌248番「人生の海の嵐に」1,2,3
◆日々の祈りの中でイエスさまから、どのような事を学ばせていただいているでしょうか。今までとは違う新しいことを経験できた。このように祈りが答えられた。まだ祈りは答えられていないが、平安が与えられたなど、祈りの格闘の中で、神さまに深く取り扱われた経験はあるでしょうか。今日の聖書の箇所は「粘り強い祈り」の実例です。
Ⅰ ねばり強い祈り(諦めない)
◆イエスさまは日常から離れて静かな時を過ごしたいと思い、ユダヤを離れ異邦人の地へ行かれました。するとその土地のひとりの女性がやって来て、イエスさまに祈り願いました。彼女の娘さんが悪霊に取りつかれていて、その癒しを願い出たのです。母親は叫び声を上げて、「主よ、ダビデの子よ。」という名をもって呼びかけます。しかしイエスさまは一言もお答えにならずに、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。母親の祈りは拒否されるところから始まりました。しかし、母親はイエスさまの足元にひざまずき、「主よ、私をお助け下さい」とねばり強く祈ったのです。
Ⅱ へりくだった祈り(明るさとユーモア)
◆イエスさまは、自分の前にひれ伏す母親になおも、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と言われました。イエスさまは、イスラエルの人々を「子ども」、ツロの人々を「子犬」と呼びました。当時のユダヤ人たちはユダヤの神を拝んでいない異邦人のことを「犬」と呼んで軽視していました。犬は町をさすらい、血をなめ、死んだ動物の肉を食べ、人間を攻撃することさえありました。この女性も、イスラエルの人々が異邦人を「犬」と呼んでいるのをよく知っていたことでしょう。人間を犬と呼ぶのは非常な侮辱でしたが、イエスさまが、ここでは「犬」ではなく、ペットを指す、「子犬」と呼ばれたのは、この母親を深く愛しておられたからです。母親はイエスさまの屈辱的発言に憤慨するどころか、とても謙虚に、そして嫌味なく軽快に言葉のキャッチボールをして見せます。「主よ、ごもっともです」と自分を子犬の立場に置いています。へりくだった態度の中に、彼女の明るさとユーモアを感じさせます。
◆イエスさまの表面上の拒否にめげず、また、一見して冷たい態度にもなお、ねばり強く諦めない、そして明るさとユーモアに満ちた母親の祈りに、イエスさまは「あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように」と言われました。するとその時、娘から悪霊が出ていき、娘はいやされました。イエスさまの拒否も、冷たく見えた態度も、この母親から信仰を引き出すためだったことが分かります。イエスさまが私たちに求めておられるのは諦めないで祈り続ける信仰です。イエスさまは今日も私たちからそのような信仰を引き出そうとしておられます。