幸いな人は、心貧しい人、悲しんでいる人

説教題:「幸いな人は、心貧しい人、悲しんでいる人」
聖書:マタイによる福音書 5:3-12
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌176番「イエスは汝を呼び給う」1,3,4 新聖歌318番「君はわが身の」1,2,3

「幸いだ」という言葉が七回繰り返される美しい文章です。心の貧しい人、悲しんでいる人が幸いとはどういう事でしょうか。「心の貧しい者」という言葉を「謙遜」という美徳として解釈されることもあります。だから心貧しくありなさい、そうすればあなたは幸いです、と捉えるのですが、実は貧しさが幸いの条件として語られているのではありません。貧しいとは大事なものが欠けている状態です。乞食のように人に助けを乞わねばならない程に貧しいという意味で、貧しさそのものには何の良いこともないのです。

▼私達はお金持ちにならなくても、心は豊かでありたいと願うものです。それは例えば常に平常心でいられること、いつも広い心をもって人に接すること、イライラしたり、恐れたりしないこと、これこそキリスト教的な豊かさではないでしょうか?しかし、イエスは逆をおっしゃるのです。あなたは今、心の足りなさを感じているか?心の不安定さで困っているか?あなたがどうしようもない心の貧しさを感じている時、あなたは実は幸いだ。何故なら、天の国はあなたの欠けているところにこそ入り込んでくるからのです。

▼ 「悲しんでいる人は幸いだ」とはどういう事でしょう?これも心の貧しさ同様に悲しみそのものに価値があるという事ではありません。本来、幸せとは悲しみのない生活のはずです。一体、悲しみとは、何か大事なものを失った時に経験するものです。自分の能力、自分という人格、何よりも悲しませるのは愛する者を失った時です。時に悲しみは、怒りや恨みに変換されます。そこにエネルギーを集中させ深い悲しみを紛らわせます。しかしそれでも悲しみは消えません。イエスは悲しみそのものが幸いと言われたのではなく、その悲しみは慰められるから幸いだと言われたのです。私達は悲しみの中にある時、ほんの小さな人の優しい言葉が胸に沁みます。悲しみは人の情にたいして繊細にさせます。けれどもイエスはそれ以上の事を言われます。神が慰めを与えるという約束です。あなたの悲しみを神は決して無視されません。今慰めがなくても将来慰めの時があるのです。だから希望が持てるのです。


 これらの言葉はイエスが言われるからこそ、意味があります。人が言っても説得力はありません。神さまが幸いの根拠であり、私達の悲しみを担って、それを慰めに変えて下さるのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次