説教題:「愛と肉欲についての教え」
聖書:マタイによる福音書 第5章27-32節
説教:斎藤善樹 師
賛美:新聖歌18番「おお御神をほめまつれ」1、2、3 新聖歌343番「罪に満てる世界」1、2、3、4
肉欲というものは本来、良いも悪いもありません。むしろ人間が生きる上で必要なものです。その力は強く、喜びを生み出し、時には悲しみや痛みを生み出します。
旧約聖書に「姦淫をしてはならない」という掟がありました。これは字義通りには、姦通、つまり不倫の行為です。しかし本来の掟の目的は広く性というものを通して人や自分自身を傷つけてはならないという事でした。律法はあくまで行為を抑制するものですが、イエスは、それはどこから始まるかというところを指摘します。罪というものは何でもそうですが、心の内から始まります。情欲をもって女性を見るところから姦淫は始まるというのです。男性の皆さんは戸惑いを感じるのではないでしょうか。右の目が罪を犯させるなら目を抜き出し、右の手が罪を犯させるなら、その手を切り落とせと言うのです。本当にそのようにしたならば、男性の大半は目を失い、手を失ってしまうのではないでしょうか。
私がよく紹介する本「エクササイズ」の2には、「肉欲に支配されないで生きる」という章があります。著者は、肉欲というものについて、二つの誤解があると言っています。一つは、肉欲は悪であり、徹底的に避けるべきものだという考えです。性行為というものも忌まわしいもの、罪深いものと考えます。キリスト教会は長らくこの考えに支配されており、性は暗いもの、必要悪のようなもの、公で語る事はタブーのように感じられてきました。
もう一つの考え方は、肉欲は人間のありのままの欲望なのだから、人を傷つけない限り、自由に開放すべきだというものです。今の日本社会がそうです。テレビでも、映画でも、ネットでも性に関するものは溢れています。これにあまりに私達の心が侵食されて、何でもありと考え、自分の思いや考えが偏り、時に深刻な犯罪が起こされてきました。
私達はイエスがこの事についてどのように教えられたのかに注目すべきです。イエスは、性の欲望を否定しておられません。結婚というものはこの情欲と切っても切れないものですが、イエスは、結婚というものを祝福されました。イエスはカナにおける結婚式を祝福されました。宴会の葡萄酒がなくなり、困った親族にこっそり水を葡萄酒に変えてあげたのです。結婚を楽しいもの、幸いなものとして祝福されたのです。また当時の社会は女性が男性に話しかけるという事はタブーでした。けれども、イエスの周りには男も女も職業にも関係なく、遊女、やくざ者と言われる人たちもいました。イエスは、女性にも声をかけ、教え、癒されました。誘惑するモノだと言って避けることはありませんでした。
イエスは、性の素晴らしさもご存じでありながらも、その危険性もご存じでした。だから、情欲に支配されないように、目を取るだの、手を切るなど、ショッキングな言葉を使って警告されたのです。イエスは肉欲に支配されないように気をつけなさいと言われたのです。
この聖書のすぐ後に、離縁の事が書いてあります。これは単に離婚禁止というルールを語っているのではなく、相手に対する愛、配慮を語っているのです。そもそもモーセの律法は女性を守るために定められたものでした。しかし、イエスの時代はそれが形骸化して、書類を作れば自由に離縁できるという事になってしまったのです。しかし、イエスは結婚の重要さ、神聖さを教えられました。結婚というのは、何が神の御心であるかを問う場所であり、神を愛し、人を愛する場所であります。
しかし、罪深いこの世界では、様々な障害が起きます。離婚せざるを得ない様な状態も起こることです。離婚に至る経緯の中には、罪というものがあることは間違いありません。しかし、私達はそれを裁くことは出来ませんし、クリスチャンであったとしても、その信仰が全否定される訳でもありません。
私達は弱いのです。肉欲にも弱いし、結婚生活を営んでいく上でも弱いのです。けれども神は悔い改める私達を赦して下さり、きよめて下さり、新しく立ち上がらせて下さるのです。