ラハブの信仰

説教題:「ラハブの信仰」
聖書:ヨシュア記第2章8-14節
説教:角田利光 師
賛美:新聖歌248番「人生の海の嵐に」 新聖歌266番「罪 咎を赦され」

 ヨシュアが約束の地カナンの地に入り、一番最初に迎えた難関が有名なエリコの城という要塞でした。遊牧の民であり、農民あがりであるイスラエルの民が武器を誇るエリコの敵に立ち向かうには、事前に周到な準備が必要でした。ヨシュアは敵の弱点を探ろうとして二人の斥候を出してエリコの地を探らせました。彼らは、ラハブという名前の遊女の家に泊まりました(1)。ラハブは人から後ろ指をさされる、そういう職業の女性でした。だからこそ、よそから来た二人でも入り易かったのかも知れません。しかし、そのことを聞きつけたエリコの王がラハブの元に使いを送ります。「よそから入った者がいるはずだ。彼らは何処にいるのだ、教えろ」(3)。王の使いは彼女に迫りますが、彼女は命がけで二人を匿まい、助け出します。どうしてそのようなことができたのでしょうか。新約聖書には、「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た者たちを穏やかに迎え入れた」(へブル11:31)。ラハブの行いは、信仰によると記されています。

【ラハブの証言】

 二人の斥候たちは、外側だけを見て、人々の心の動揺を見抜けませんでしたが、ラハブから人々の恐れについて聞かされます。「主が、今自分たちが住んでいるこのエリコの地、そこをあなた方に与えている。そのため、私たちは恐れおののいている」(9)。なぜなら「あなたがたの神さまのなさった御業を聞いたからです」((10)。実際に何かと言うと、荒野での出来事を通して、「あなた方の神、主こそ、上は天において、下は地において神であられる」(11)ことを知っている。人ではない、全てのことを司り力強く導かれる神を私たちは聞いたのです。それを知ったら、「私たちの心は挫けてしまった」(11)。とラハブは証言しました。こうしてラハブは神さまに用いられ、ヨシュアのところに帰っていった斥候たちは、「この地に進み行きましょう。神さまは私たちに渡してくださっている。神さまがなさった御業のゆえにこの民は恐れている」(24)。その現実をラハブの口から聞いて彼らは知ることになって、そして信仰の歩みを進めていくことになります。

【救いへの信仰】

 彼女は残念なことにいつも遊女という汚名がくっついています。聖書の中でもずっとそうです。遊女ラハブ、彼女はずっと後ろ指をさされるような歩みをしていました。社会的に彼女の事を受け入れる人というのは多くなかったはずです。さげすまれ、追いやられて、まともに相手にしてもらえない立場の中で歩んでいました。そして人々はそれを自業自得だと言っていました。なぜならそれに相応しい歩みしかしていなかったからでした。おそらく家族からも遠ざかっていたことでしょう。そのような中で、ラハブは神様のことを聞いて、信仰を持つようになったのでしょう。

 神さまを信じる信仰にはいろいろあります。病気になった時に直していただけるように、神さまを癒し主として信じる信仰や自分の計画をいっさい神さまの御手にお委ねする信仰の中で、もっとも大切なものが、神さまを信じることによって救われるという、救いに対する信仰ではないでしょうか。そこで彼女が求めたものは自分とその家族、親族の救いでした。イスラエルの民が攻めて来た時に、このエリコの町は攻め落とされてしまうだろう。そうしたらそこにいる者たちは全部滅ぼされてしまうだろう。それでは私も私の家族ももう後がない。イスラエルが攻めてくる時に、私と私の家族を救ってほしい、それが彼女の願いでした。それを彼女は叶えられてほしいという強い思いを持っていました。

【赤い紐の約束】

 「命を救ってください」((13)というラハブの願いに対する斥候たちの答えは、「赤い紐を大事にして、あなたとあなたの家族の大切な命がかかっていることを確信して、窓の外に下げなさい。そして、家の中にいなさい。しかし、家から出て、殺されることがあったとしたら、それは私たちの責任ではありません」(18、19)。というものでした。その印が赤い紐で、赤は贖いを意味します。贖いは解放といえるでしょう。救いと言ってもよいでしょう。その事に彼女は信頼して、神さまの約束の印として赤い紐を信じる者として、それを頼りに歩んでいったはずです。

【ラハブも知らなかったこと】

 彼女が考えていたのは自分とその家族が救われる事でし。しかしそれは、神さまの御手の中でとても大きな告白になっていきました。何と彼女の歩みはイスラエルの中でずっと語り継がれていくことになります。もう一つ彼女が知らなかったことがあります。彼女はいつも遊女ラハブと言われ続けて来ましたが、こんなにも神さまの御業に用いられ、まさか時を経て海を越えてこんなにも文化も言葉も生活も何もかも違う私たち日本人が彼女の名前をラハブ、ラハブ、ラハブと何回言ったか分からないほど、彼女の名が用いられてこんな風に聴くとは彼女自身思ってもいなかったことでしょう。彼女がしたのは、その時その場で自分が出来る精一杯の信仰を働かせた、それだけでした。そのラハブを神さまは用いてくださり、彼女の名前は、キリストの系図に記されています。

 ラハブが赤い紐をつり下げて、その家の中に閉じこもっている時に救いを得たように、時代は異なりますが、新約に生きる私たちクリスチャンは、イエス・キリストの十字架に身を寄せている時、いかなる神の怒りも、十字架を超えてまで、私たちに及ぶことはありません。上を向いても、下を向いても、そこに主なる神はご臨在されます。このお方によって信仰を強めていただきながら、信仰の歩みをすすめてまいりましょう。

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