説教題:「人の間に住まわれる神」
聖書:マタイによる福音書 第1章18節~25節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌85番「羊は眠れり」1,2,3 新聖歌78番「荒野の果てに」1,2,3
クリスマスのヨセフとマリアについてのストーリーです。イザヤ書の言葉(7:14)もこの時期に良く引用されます。これは神が私達の間に住まわれる、共におられるというメッセージです。2023年も色々ありましたけれども、神は共にいて下さいました。そして新しい年もこの神が共におられるという信仰と感謝をもって歩んでいきたいと思います。
マリアとヨセフは人生の危機的状況を経験しましたが、神が確かに彼らと共におられ、神から祝福を受けるという体験をいたしました。 ヨセフは非常な悩みの淵に突き落とされました。婚約中の相手が妊娠していることが分かったのです。聖霊によって身重になったなど、常識では考えられない事ですから、公になれば姦淫罪としてマリアは掟によって罰(石打の刑)を受けることになります。ですから密かに別れようとしたのです。
一方、マリアはマリアで、ヨセフ以上に悩んだことでしょう。天使ガブリエルにあのようには答えたけれども(ルカ1:26-)、ヨセフの信頼を裏切ることになるとまで、まだ少女であったマリアはどれほど想像できたでしょうか?ところがヨセフは、マリアを妻として受け入れ、それだけではなく、生まれてくる子どもの父親となる心の用意ができていました。信じられない事です。二人の心を動かしたのは、神様でした。聴けば、ヨセフは夢で天使のお告げを聞いたと言います。二人は、もしかしたら、一時は神から見放されたかという思いに襲われたかもしれません。夫婦としての未来はないと思ったかもしれません。しかし、二人はそれぞれに神が共にいて下さるという経験をし、二人を導いているのは神だと確信したのです。
しかし、この物語は、単に神がヨセフやマリアと個別に共におられるという結末で終わるのではありません。神は、そもそも人類と共におられるので、個人のヨセフやマリア、そして現代の私達と共におられるのです。天使の言葉は 「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」でした。イエスという名前の意味は、「神は救い」です。彼は身をもって民を救う者になるのです。罪に汚れた人類を神は見捨てず、なおも共におられ、私たちの間に住まわれ、お救いになるというのです。
人類は、アダムとエバの堕落以来、罪によって侵食されてきました。すでにその結果が、直の次世代に兄弟間の憎しみ、殺人という形で現れました。そして世代が下がっていくごとに罪は増していきました。神が造られた世界がますます乱れていくのです。現代の世界は人間の心が悪魔に支配されているかのようです。憎しみが憎しみを産み、悲しみが悲しみを産んでいます。神を愛することも互いに愛することも忘れてしまったかのようです。
ある青年と聖書の学びをしていてこんな話をしました、「あなたが丹精込めて人形を作ったとする。しかし、後になって欠陥があることが分ったら、あなたは、それを壊して、つまりなかったことにして、新しいのを作りますか?それとも何とかその欠陥を直しますか?直す方が面倒なのだけれども」 青年は、「もし自分が心を込めて作ったものならば、その人形に愛着をもっているから、壊すことはしないで、何とか直そうとすると思う」と答えたのです。まさに神はそのような決断をなさいました。罪に陥った世界をなかったことにして、壊してしまって、新しいのを作ろうとなさらずに、何とか直そうとなさったのです。神はご自分の造られたものを愛されたからです。神は人間を生まれなかったことにするのではなく、新しく生まれ変われるように救い主をお送りなさったのです。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。これは神は私たちと共におられるという意味である」 なおも、神は罪に溺れる、どうしようもない世界の人の間に住まわれ、共に居ろうとご決断なさったのです。