説教題:「人の間に住まわれる神」
聖書:ルカによる福音書 第2章8-20節
説教:角田利光 師
賛美:新聖歌79「天には栄え」 新聖歌78「きよしこの夜」
救い主誕生の物語は、静かな夜、眠りにつく羊たちを見守る羊飼いの姿を描きます。言うまでもなく、この人びとは、自分たちの地上の生活について大げさな望みを抱いていたわけでもなく、いつか来るべき地上の楽園を夢見ていたわけではないことは確かです。実に素朴で貧しい人々でありました。その彼らのもとに主の天使が遣わされました。「恐れるな」これが世界で最初のクリスマスのメッセージの言葉となります。なぜでしょう。なぜならば、私たちは皆恐れを抱きつつ生きているからです。私たちは皆自分で理解できない時代に生きています。あまりにも多くの闇を抱え込んでいる時代に生きています。いつ何が襲いかかって来るか分からない時代に生きていて、私たちの間にただ一人でも恐れる必要のない人があるでしょうか。その中にあって、なぜ恐れないのでしょうか。
天使は「すべての民全体の喜び」として語っています。「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」。それが何を意味するのかを私たちは知る必要があります。二人の若い夫婦にただ子どもが生まれたという喜びとして伝えたのではなく、全世界の人々に与えられる大きな喜びとしてメッセージが語られます。私たちの一切の恐れから引き出してくださるお方を、この一切の恐れの中に送ってくださった出来事に大きな喜びがあります。御子キリストが飼い葉桶の中におられるのです。救い主がおられるのです。私たちの間にある命です。しっかりしがみつくことがゆるされる天からのしるしです。それがクリスマスの大きな喜びです。
「すると突然、天の大軍が加わって、天使と共に神を賛美して、いと高きところには栄光、神にあれ。知には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美したことを告げています。これは、とても大事なところです。「御心に敵う人に」とありますが、私たちはイエス・キリストを救い主と信じる故に、神さまに対して正しい人にされています。感謝な事にクリスチャンはすでに御心を得て神の子とされています。その私たちに神が与えてくださる神の平和があるようにと天使と天の大軍は歌ったのです。ここに天の父なる神さまが図られた大切な愛のメッセージが込められています。
羊飼いたちは、天使が離れていったとき、次のように話し合いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた」のです。羊飼いが「急いで行って」最初に見つけたのはマリアとヨセフ、御子は3番目に来ます。この順番は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。現代で言うならば、まだ一度も教会に行ったことがない人、救い主をまだ知らない人が最初に出会うのは、私たちクリスチャンであると言えます。その私たちを通して人は教会に導かれ、御子を仰ぎ見ることができるのではないでしょうか。「ほらあそこにキリストの教会がありますよ。ここに救いがありますよ」と伝える役目を担っているのが私たち教会です。福音はただ聞いて終わりではない、実際に目に見える形で現わされるもの、手で触れるものでなければなりません。
そうして羊飼いたちはマリアとヨセフの二人を通して「そこで起こった出来事を見た」のでした。羊飼いたちは、主の天使が告げたことが全部本当だったので、もう嬉しくて、嬉しくて、「神を崇め、賛美しながら帰って行きました」。このクリスマスの出来事を聞いて不思議に思う人もいるでしょう。「何を言っているんだ」と。実際に羊飼いたちの話を聞いた人々は不思議に思ったのです。ただそれは反抗心からではなくて純粋に健全な心を持って聞いてそう思ったのです。みすぼらしい飼い葉桶に寝かされている赤ん坊、しかし、それが「救い主」だと言うのですから。彼らは天使を見ていませんし、飼い葉桶も見ていませんでした。
この物語の第2部とも言える19節にもう一人の人物の思いが描かれています。母マリアです。人々が不思議に思った出来事に対して「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていた」のです。マリアはすべてのことを見聞きしていたし何よりも、御子を生んだ当事者です。もしクリスマスの出来事を信じることが困難であるとしたら、マリアにはさらに困難であったに違いありません。まだ結婚もしていないのに、突然天使の訪問を受けて、救い主がその胎内に宿られることを信じることは、無鉄砲なほど大胆な信仰だと思われます。しかし、信仰が進み、成長するためには何が必要であるかをよく示してくれているのが、まさにマリアです。彼女は信仰の歩みを始める前に一度立ち止まり、語られた御言葉を静かに思い巡らしました。立ち止まるのです。どこにおいてでしょうか。心においてです。自分に語られた御言葉を心の中でもう一度思い巡らすのです。その後マリアは天使に答えました。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」と。彼女はいつの世の人からも「幸いな女性」と思われていますが、それは決してこの世的なことだけではありません。天からのしるしが自分の身に起こった時、インマヌエルの神、主がこの私と共にいてくださると心から感謝したマリアの謙虚さの中に、彼女の真の幸せを見てとれます。このクリスマス、皆さまはどんな言葉を聞き、何を見るでしょうか。私しにとってクリスマスはどんな意味があるのでしょうか。是非一度立ち止まり、心を思いめぐらしましょう。
クリスマスの物語は上から始まります。何故かと言えば、天の父なる神さまが、すべての人に与えてくださった救いの物語だからです。ところが私たち人間が考えること、計画すること、望むこと、願うこと、恐れることはすべて下からのものです。私たちが生きている限りそうせざるを得ないのが現実です。しかし、世界救済の物語は、神さまのところから始まっています。そして今日、天が開かれて、私たちのために、私のために救い主がお生まれになりました。このお方こそ天からのしるし救い主キリストです。罪からの救い手です。クリスマスの聖なる日、主の天使はそう告げるのです。キリストの御降誕を心から感謝いたします。