説教題:「試練の中で祈る」
聖書:マタイによる福音書 第6 章13節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌230 「十字架のもとぞ」1,2,3 新聖歌311「いかに恐るべき」1,2,3
「我らを試みに会わせず悪より救い出したまえ」と主の祈りでは祈ります。「試み」は試練とも言いますが、試練とは逆境、苦難です。人生に試練は避けられません。様々な試練があります。病気、愛する人の死、仕事上の試練、経済的な試練、人間関係での試練。すべての試練を避けることはできません。けれども、これだけは、という試練は会わせないで下さい。そう祈っても良いのだと安心して祈ります。主イエス自身も十字架に架かられる前夜、ゲツセマネの園で、「御心ならば、この苦しみに遭わないようにして下さい」と祈られました。私はこの祈りに慰められます。
さて、また「試み」という言葉は、誘惑とも訳せられる言葉です。誘惑に負けたことはありますか?私は何度も、しかも深刻な誘惑に負けたこともあります。誘惑とは本来やってはいけない事へ誘うものです。悪へと誘われることを誘惑と言います。ですから、この言葉のあと、悪から救い出して下さいと祈るのです。
誘惑は、自分が全く望まない事に対しては起こり得ません。自分の内の欲望とか感情とかがある時に起こるのです。食欲、性欲、名誉欲、承認欲、これらの欲望は本来悪いものではありません。 悪とは自分を傷つけ、人を傷つけ、究極的に私を神から引き離すものです。この「悪」という言葉は、口語訳聖書では「悪しき者」と訳されています。イエス様は悪を抽象的なものではなく、具体的で人格的なものとして仰っているのだと思います。それは「サタン」或いは悪魔と呼ばれるものです。サタンとは「敵対する者」という意味です。神と人とに敵対する者がサタンです。サタンの目的は、私達を誘惑し、神のもとから離れさせることです。
サタンは、アダムとエバを誘惑し、人間と神様を引き離しました。以来、サタンは今も私達を誘惑しています。サタンはもともと私達の持っている欲望、感情、弱さに働きかけます。サタンが私達の感情に働きかけると憎しみや恨みとなります。争いになり、戦争になります。怒りそのものは良い悪いはありません。けれどもその怒りが神さまではなく、サタンに支配されると破壊的になるのです。
試みは逆境とも言えます。私達が切実に祈りたいのは、逆境の中でもサタンが私達を神の元から引き離さない事です。神への信頼を失わないように、希望を失わないように祈るのです。
この試練と関連して、聖書には素晴らしいみ言葉があります。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えて下さいます。」Ⅰコリント10:13 これを書いたパウロという人は、たくさんの試練を経験した人です。その人が人生の晩年を迎えつつ、この言葉を残しました。人生を振り返って、たまたま耐えられないような試練には遭わなかったのではなく、神さまが私を試練から守って下さったのだと分かったのです。これを読んでおられるあなたは、今、試練を経験されているでしょうか。神はあなたが耐えられない試練はお与えにならないというのです。しかも、試練がきても逃れの道を備えて下さるのです。正面に巨大な山が立ちはだかっています。とても越えられませんし、山を動かすことも出来ません。しかし、その脇に道があるのです。その道は、意外で目立たない細い道かもしれません。藪が生えている道かもしれません。しかし、確実に通れます。そこにこそ神の御心の道を見出すのです。そこを歩んだ時に、私達は神さまの栄光を見るのです。