説教題:「だから、あなたは血の塩、世の光」
聖書:マタイによる福音書 第5章 13~16節
説教:齋藤 善樹 師
賛美:新聖歌138番「よろずのもの」1,2,3,4 新聖歌425番「灯台は遥か」1,2,3
イエスは弟子たちに、あなたは地の塩であり、世の光であると言われました。それはどのような意味なのでしょうか?
地の塩 塩には二つの機能があると言われます。一つは、モノを腐らせないことです。生ものは自然のままだと腐敗しますが、人間世界というものも、組織も国家も社会も放っておくと腐敗していくのです。真のクリスチャンの存在は、塩として社会の腐敗を防ぐのです。
もう一つの塩の機能は、味付けです。料理を美味しくするには塩が不可欠です。塩は目立たないように溶け込んで味を作るのです。クリスチャンとはそのような存在です。目立たないかもしれませんが、社会に溶け込んで周りの人の持ち味や個性を生かし、引き立たせるのです。味気ない、むなしい人生を意義ある、味わい深い人生に変えるのです。
世の光 光は塩と違って目立つことによってその働きを発揮します。人々は明かりを燭台において家の中を照らしました。料理するのも他の作業するのにも明かりが必要です。光は私達に行くべき道を照らし、闇の中にいる私達に希望を与えます。世の光としてのあなたは人々の行くべき道を照らし、あなたの行動やあなたの言葉が人々の支えとなりガイドとなるのです。
このようにイエスは塩と光という全く違う性質のものに譬えて、私達がこの世界に存在する意義を教えられました。塩について聖書は他のところでも言及しています。「いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどのように答えるべきか分るでしょう。」(コロサイ書4:6)確かにモノには言い方というコツがあるかもしれませんが、単に技術的な事だけではないと思います。私たち自身が塩で味付けされていれば、おのずと口から出てくる言葉は味付けされているものになるのです。たとい失敗しても修復できます。
塩と光の源
光はどうでしょう?私達が努力して頑張って輝くのでしょうか?ある程度は努力も必要でしょうが、基本的に自家発電では長続きしません。イエスが言われた光とはイエスが私達の内で灯となって下さる光です。私の内に灯が輝き続けるには常に燃料が必要です。
私達自身が常に塩によって味付けされ、光の燃料が与えられていなければなりません。それを私達は常にキリストとの交わりからいただくのです。実はここがクリスチャン生活のカギです。「あなたは地の塩、世の光である」と言われたイエスに信頼して、地の塩、世の光として成長することを願いつつ、塩味や光の供給源であるキリストとの交わりに時間を日ごと持つのです。アドバイスをさせていただくと、日ごとに5分間の祈りの時間を持ってください。朝一番がおそらく最良と思うのですが、どの時間でも結構です。とにかく中断されずに神さまに思いを寄せられる時間を取ります。5分の内2分ほどは、呼吸を整えます。雑念からできるだけ自由になるために数を数えてゆっくり呼吸するのも良いでしょう。そして、覚えている聖書の一句を心の中で繰り返します。私はよく詩編23編1節をゆっくり繰り返します。「主は、私の羊飼い」。そしてこう祈ります。「神さま、私はもはや自分のものではありません。あなたのものです。私の内にキリストが生きておられます。私をあなたの願うとおりにしてください。」残りの時間は、願いや感謝をささげます。時間のある時はゆっくり聖書を読んだり、信仰の本を短くじっくり読まれるのも良いでしょう。これは栄養ドリンクのようなものではありません。すぐに元気にならない事もあるでしょう。けれども日ごとの継続があなたとキリストとの交わりを強めます。そして、地の塩として世の光としての私が少しずつ養われていくのです。急ぐことはありません。地の塩、世の光は急いで出来上がるものではないからです。 地の塩、世の光は、世界に在ることに意義があります。私は願います。この教会が人を育て、養い、世の中へ地の塩たち、世の光たちを世界に送り出していくことを。