説教題:「何て幸いだ!心の優しさ、正しさを持つ人」
聖書:マタイによる福音書 第5章 3~10節
説教:斎藤 善樹 師
賛美:新聖歌308番「高き岩よ」1,2,3 新聖歌345番「高き岩よ」1,2,3,4
イエスはへりくだった人が幸いだ、何故なら地を受け継ぐからだと言われました。へりくだるという言葉は、むしろ意訳です。直接の意味は、「柔らかさ」です。人格にあてはめると、穏やかさ、謙虚さ、優しさとなります。口語訳では柔和という言葉が使われていました。先週の礼拝では、イエスがエルサレムに入城された時、子ロバに乗って入城されたことを学びました。ロバは軍馬と違って平和の象徴です。旧約聖書のゼカリヤ書はこのように預言しています。「あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者、へりくだって(柔和な)、ロバに乗って」 支配者である王は地を支配するのに、権力や武力ではなく、平和によって支配されます。柔和な人が地の支配を継承するのです。
世界の国々はほぼ例外なく、力によって地上を支配しようとします。確かに力が一時的には支配するでしょう。しかし、どのような強力な国家も長くて数百年から千年です。イエスは真に地上を支配するのは柔和な者たちだと仰います。真に人を動かすのは柔和さです。イエスその人が柔和な方でした。イエスは「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。わたしは柔和でへりくだった者だから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。」と言われました。このイエスの影響力は、歴史上の大帝国の比ではありません。
イエスの柔和さや優しさは私がどのような人間であろうと変わりません。さて、イエスは優しいけれども、自分は優しくないから、この「幸い」は自分にはない、と言う人もいるかもしれません。しかし、人間は誰でも本当は優しさを持っているものです。何故なら人間は誰でも弱さを持っているからです。「柔和」という言葉には弱さという意味を伴っています。人間は自分の弱さを知っている時に他人の弱さに優しくなれるのだと思います。私たちは大きな試練を経験する時に人に優しくなれるものです。先の東北大震災などの危機的状況の中で人々がしばしば互いに助け合っている様子を見ます。自分の事だけで精一杯なのに他者を助けようとするのです。自分の経験する試練や弱さが人への優しさへと神は変えて下さるのです。
さて、イエスはさらに「義に飢え渇く人」は幸いだと言われました。飢え渇くとは、尋常ではない心で「義」を求めているのです。義とは正義です。社会の正義を求めるという意味もありますが、この言葉は、社会の義のことを言う以上に、神の義のことを言っています。人間は他の人の不正を言う割にしばしば自分の不正や罪を忘れています。しかし、自分の過ちを認め、それを後悔し、赦しを乞う、義に飢え渇くとはそういう事です。ダビデ王は、自分の部下の妻と不倫を犯し、子どもができてしまい、それを隠すために部下を最終的に殺してしまいました。彼はそれを指摘され、自分の犯した罪故に苦しみました。彼の罪は神との関係を痛め、腐らせてしまったのです。彼は自分の罪が赦され、聖くされる事を必死に願いました。詩編51篇はその時のダビデの心情を克明に描いています。「神の求める生贄は砕かれた魂、神よ、砕かれ悔いる心をあなたは軽しめられません」。神は砕かれた魂をもって祈るダビデを赦し、もう一度立ち直らせました。その経験はまさしく満ちたれる経験なのです。