説教題:「何て幸いだ!憐れみ深い人、心の清い人」
聖書:マタイによる福音書 第5章 7,8節
説教:斎藤 善樹 師
賛美:新聖歌141番「イエス君は」1,2,3,4 新聖歌426番「世には良き友よ」1,2,3
憐れみ深い人、心の清い人々は、なぜ幸いなのでしょう?憐れみ深い人というのは、実際に憐れみの行動を取る人のことです。普通は憐れみを受ける人が幸いなのですが、イエスは憐れみの行動をとる人こそが幸いだと仰っいました。
憐れみを日常的な言葉で言うと、見返りを求めない親切な行為です。そのような行為をする人は、その人自身が憐れみを受けるというのです。このみ言葉から私は一つの日本の諺を連想しました。「情けは人の為ならず」。これはしばしば間違って解釈されるので有名な諺でもあります。人に情け深い事をするのは、結局自分のためになるのだという意味です。憐れみをかける人は憐れみを受けるというイエスの言葉と似ています。この諺にちなんだ「佃祭り」という古典落語があります。身投げをしようとしていた若い女性を助けた事が巡りに巡って、自分の命が救われたという話です。さて、これは落語だけの話ではなく、実際に親切な行為をする人は統計上、他の人から親切な行為を受ける確率がはるかに高いそうです。
この話は深イイ話ですが、イエスのみ言葉の半分の意味だけしか表していません。イエス様が言われたのは、憐れみ深い人は、今、神の憐れみを受けるのだというのです。憐れみの行為というのは他の人との絆を深め、神との関係を豊かにするのです。神は愛の神、交わりの神だからです。あなたは誰かのために生きる時に、より大きな生きがいを感じます。神が共におられることを経験するのです。神はあなたがどんな人間だろうと、あなたに憐れみをかけておられます。けれどもあなたが憐れみの行為をする時にあなたは神の憐れみを実際に経験するのです。
心の清い人は幸いだとイエスは言われます。心のきよさは神を見る経験につながるのだというのです。心の清さとは外側の清さではなく内側の清さです。ある時、イエスはパリサイ人の家の食事に招かれました(ルカ11:41)。当時のユダヤ社会では家の中に入る時、きよめの儀式というものをしました。衛生の為というよりも宗教的な意味があったのです。ところがこの時、イエスはこれをなさいませんでした。そこでホストのパリサイ人は不信感を抱きました。イエスは言われます、「あなた方は外側を清くするのに熱心だ。しかし、内側がおろそかになっている。それはまるで皿や杯はきれいだが、傷んだ食べ物を盛っているようなものだ。内側を貧しい人に対する憐れみで満たしなさい。そうすれば内側も外側もきよくなる」。きよさを持つとは人に対して憐れみの心を持つことなのです。
パリサイ人は、イエスのような有名な人や地位の高い人に対しては喜んで豪華な食事を提供しましたが、貧しい人々、自分には利がない人は眼中になかったのです。イエスはそれを言いたかったのです。私達も憐れみを持つのは、自分の気に入った人、意見を同じにする人に限定していませんか?そうでない人は憐れみの対象外なのですか。自分だけを清くして、自分から見て汚れた人に対してはシャットアウトするのですか?パリサイ人達は真面目な人々でしたが、それが欠点でした。自分達だけのきよさを保つために、自分が認めない、汚れたと感じる人々には触れようとしなかったのです。それは、まるで外側だけをきれいにして満足しているようなものです。
私達は、神ご自身が聖なる方であることを忘れてはいけません。聖書は、神が聖なる方であるから、あなた方も聖なるものとなりなさいと言っています。神はご自身の聖さで満足されず、罪人を受け入れ、清くなさったのです。イエスの十字架はそのお姿を現しています。ですから私達は神の聖さに生きつつ、人への愛の心を持つのです。これによって私たちはきよくされ、私達の生活の中で神と出会い、神を知ることができるのです。