何て幸いだ!平和をつくる人、迫害を受ける人

説教題:「何て幸いだ!平和をつくる人、迫害を受ける人」
聖書:マタイによる福音書 第5章 9,10節
説教:斎藤 善樹 師
賛美:新聖歌252番「安けさは川のごとく」1,2,4 新聖歌253番「イエスの御腕に」1,2,3

 イエスは平和をつくる人は幸いだと言われました。誰だって平和の方が良いです。しかし、イエスは平和を好む人々は幸いだと言われたのではなく、平和をつくる者は幸いだと言われました。神は平和の神です。だからこそ平和をつくる人は神の子と呼ばれるのです。

 私たちは、この言葉を違和感なく受け止められます。しかし、当時これを聞いたユダヤ人たちはどのように受け取ったのでしょう?イスラエルという国は常に小国で、さまざまな大国にたびたび国土を踏みにじられ、イエスの時代にはローマに支配されていました。人々はローマを憎み、過激なグループはしばしば暴力的な抵抗運動を起こしていました。彼らの信仰は平和の道というよりも敵を憎む道でした。しかし、イエスは暴力を否定し、平和をつくり出すことを強調しました。確かに旧約聖書には暴力をもって敵を打ち倒す箇所がいくつかあります。ヨシュア記や申命記、サムエル書などです。当時の人々はこれらの箇所によって自分たちの暴力行為を正当化しました。けれども、同じ旧約聖書のイザヤ、ミカ、ホセア、エレミヤ、ヨナ書などの箇所は、ほかの国々との間に平和をつくるように命じています。聖書は豊かな叙述物語です。当時も様々な解釈がなされました。神の子イエスは、はっきりと平和の神を語られ、人を殺すこと、戦争や自己目的のための争いを肯定するような箇所は一切引用されず、平和を作り上げる聖書の箇所を引用なさいました。このイエスが私たちの主、王であるならば、イエスが聖書をどのように語っているかに焦点を当てるべきです。

・当時のイスラエルの人々は外国人は罰を受けるべきだと言いました。しかし、イエスは神の裁きはイスラエルも他の国も同じように下られると言われました。

・イスラエルが汚れたすべての人から分離するべきだと人々は言いました。体の障害を負った人、娼婦、外国人、犯罪人、ローマ兵、徴税人、子ども・女性、献金できない貧しい人達を神殿や共同体から締め出そうとしました。しかし、イエスが言われたのは、聖なる神は分離の神ではなく、贖いの憐れみの神であり、アウトサイダーを内に取り込む神であることを言われ、またそのように行動されました。

・一般のユダヤ人たちはサマリヤ人を憎みました。けれども、イエスはサマリヤ人を憐れみをもって行動する人として語り、人目を忍ぶサマリヤの女性に暖かく語りかけられました。

・熱心党のようなイスラエルの過激派は、暴動やテロを教え、ローマ兵や将校を殺しました。しかし、イエスはローマ兵にも憐れみを示されました。

このようにイエスは当時の一般のユダヤ人の考えを覆すようなことを教えられました。イエスはこの地上に私たちが諦めることなく平和をつくることを言われたのです。

 また、イエスは義の為に迫害を受ける人は幸いだと言われました。この世の中で、正しいことをする時、平和をつくろうとする時にしばしば迫害を受けるのです。言われもない事や理不尽なことで責め立てられます。しかし、イエス様は、責める側にはおられません。責められる側におられるのです。世界中の人があなたを責めようともイエスはあなたを責められません。

 ユースジャムのある集会で一人の若い女性が自分の職場の働きの事を話されました。そこは戦争や紛争地域での平和支援活動をする団体です。その団体の独特なところは、テロ活動する人たちに対して投降を呼びかけ、その後の生活のことを支援することをメインにしているところです。テロリスト達を排除するのではなく、彼らに武装解除を呼びかけ、後の生活を守るのです。そこには私たちの想像を絶するような苦労があり、またよく理解されずに反対されることもあります。

 私たちはそれらの働きの為に祈るべきです。一部の人たちが負うべきものではありません。平和をつくること、時には大きな抵抗を受けることもあります。私たちは国と国との平和、民族と民族との間の平和を祈りつつ、身近なところから始められます。私たちは隣人との平和を真剣に考え求めているでしょうか?まず私たち側から始めるべきだと思います。神さまは、そのような私たちと共にいて下さいます。

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