言葉の重み

説教題:「言葉の重み」
聖書:マタイによる福音書 第5章33節~37節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌40番「ガリラヤの風かおる丘で」1,2,3,4 新聖歌340番「救い主イエスと」1,2,3

 言葉は重みのあるものです。誰かの一言が、心にいつまでも残っているという事があります。また聖書の言葉は時に私達の人生を変えるほどの重みがあるものです。主イエスは「誓ってはならない」と極端と思われるような事をおっしゃいました。誓いも言葉です。国会や裁判で証言する者は偽りを言わないことを誓約します。結婚式では、神の前に誓約をいたします。イエスはこれら一切のことを止めるように言われたのでしょうか?そうだとしたら何のために?

 そもそも人が誓約をするのは、人間が偽る存在だからです。わざわざ裁判で嘘を言いませんと誓うのは、嘘をつく可能性があるからです。つまるところイエスがおっしゃりたいのは、誓っても誓わなくても、真実に生きること偽らないで生きる事なのです。律法に厳格なユダヤ人でも偽ることが多かったようです。昔の掟に「偽り誓うな、誓ったら、誓ったことを主に果たせ」というものがありました。この掟には実は抜け穴があったのです。神さまに対しての誓いでなければ守らなくても大きな規則違反にはならなかったようなのです。「神かけて誓う」とは言わずに、天にかけて、とか地にかけてとか、言ったそうです。この言い方ならば、直接神にかけていないから破っても良いという事になります。しかし、イエスから見るならば、すべてのことにおいて神がおられるのです。だから何に向かって誓っても、それは神の前で誓うことになるのです。誓ってはならない、なぜなら、どうせ誓っても破るのだから、誓うこと自体意味がないからやめさないというのではありません。誓約してもしなくても偽ってはいけない、常に真実な言葉を語りなさい、ということです。

私達の社会は真実の言葉と偽りの言葉とどちらが多いでしょうか?社会をリードする立場の人が嘘を平気でついている。いかにうまく嘘をつくのが政治家のような感じさえします。私達も普段の生活で、正直者は馬鹿をみると言ったりします。けれども正直な人を人は信頼します。偽りのない世界があったとしたら、どれだけ生きることが楽になるでしょう。

誓ってはならない、あなたの言う事は、「然りと否」にだけにしなさい。これもイエス様お得意のショッキングな言い方です。真実な言葉とは謙虚さを伴うという事です。「絶対」という言葉を使わないことです。私達は人と口論になる時、自分の意見が絶対正しいと思い、相手は間違っていると思うものです。真実な言葉とはそのようなものではありません。常に自分の考える事に余裕を持たせることです。自分は今、こう思っているけれども、相手の意見にも一理あると常に心にスペースを置くことです。それがあなたの言葉を真実な言葉にさせます。これは特にイエスの弟子たちに向けて語られた言葉かもしれません。こんな言い合いが多かったのでしょうね。

また、これは大切な事ですが、自分の言葉が真実な言葉となるのに必要な事があります。それは沈黙です。沈黙して聴くことです。相手の言葉をよく聴くことです。次に自分の内なる声です。自分は本当に願っていることは何か?自分が思っていることは何か?そして最後に、これは一番大切なことですが、神の言葉に耳を傾けることです。聴くためには沈黙することです。沈黙の祈りです。あなたの沈黙の祈りが実にあなたの言葉を真実にさせます。主イエスがそうなさいました。イエスはたくさん語られました。しかし、常に一人になって祈る時を持ちました。父なる神に聴き、神に語られました。語るために沈黙するのです。真実な言葉は神の前に聴くことから生まれるのです。

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