説教題:「困難な愛、輝かす愛」
聖書:マタイによる福音書 第5章38節~48節
説教:齋藤善樹 師
賛美:新聖歌166番「威光・尊厳・栄誉」 新聖歌79番「天には栄え」1,2,3
この聖書の言葉は「愛」がテーマです。「右の頬をうたれたら、左の頬をも向けなさい」 「敵を愛せ」などという有名な言葉があるところです。これらを「左の頬もんだい」、「敵を愛せ問題」と呼びたいと思います。なぜ、「もんだい」かと言えば、こんな事を実際に行なったら、自分自身が踏みにじられ、社会の秩序が乱れると思われるからです。この一連の言葉は、やられたらやられっぱなしで我慢しなさいと言っているように思われます。しかし、この言葉は単に規則として受け止めるべきものではなく、私達の注意を何か貴重なものに向けさせる言葉です。私達が人から害を受けた時の心の在り方に注意を向けさせるのです。それは、私達の内に起こる復讐心です。
私達は誰かから傷つけられた時、とっさに出てくる反応は防衛反応であり、攻撃反応です。それは怒り、復讐心となって表れます。 人間の本性は「やられたらやり返す」です。今、世界で起こっている様々な対立、紛争、戦争は、身体的、物理的害だけでなく、心に憎しみを生み出します。相手のことを悪魔のように思う憎しみであり、劣ったものであるかのように考える差別意識です。憎しみが憎しみを呼び、悲しみが悲しみを生みます。この循環には終わりがありません。どこかで断ち切らねばなりません。
断ち切るのが難しいのは、損得の問題があるからです。自分が我慢をしたら自分だけが損をすると思いうからです。それだけではなく、プライドの問題もあります。こちらから下手に出るのは悔しいのです。傷があまりに深いとそれがまた難しくさせます。ですから、イエスの言葉は私達にとって大きなチャレンジです。けれども私達がこのことを真に祈り求めるならば聖霊が働き人間にはできない事を神はさせて下さるのです。
二つ目のこと、「敵を愛せ問題」も同じです。これも愛の領域です。憎しみの循環を断ち切るのには愛がかかわります。しかし私達は敵を愛せよという言葉に違和感を持ちます。そもそも愛せないから敵なのでしょう。しかし、ここで知っておかねばならない事は、聖書の愛:アガペーは感情の愛ではなく(感情が伴う事も勿論多いですが)、意志の領域なのです。相手を愛しく思うという情緒ではありません。ですから、主イエスは別の言葉、「あなたを迫害する者のために祈りなさい」と言われるのです。愛するとは、その人のために祈る事です。その人の祝福を祈り、本当の幸いを祈るのです。一回きりではありません。祈り続けるのです。感情がこもっていなくても、その祈りが日ごとになされるのならば、それは本物です。祈りはあなたを変え、愛していくことになるのです。
なぜならば、そのような愛のルーツは神だからです。イエスは仰います、「神は正しい者にも、正しくない者にも太陽を昇らせ、雨を降
らせる方だ」と。この言葉はひょっとしたら「不公平だ」とどなたかをつまずかせるかもしれません。悪人も様々な自然の恩恵を受けるのです。だから、神なんて信じられないという人もいるかもしれません。結局神は何もなさらないではないか?確かに、神は裁きの神でもあり、裁きの時はいずれ来ます。しかし、考えねばならないことは、私達が不公平だと言う時に、当然のように、自分を正しい者の立場に身を置いていることです。本当は自分だって神に対して良からぬものを持っているのです。しかし、神は私達を慈しんで恵みを与えられます。だから私達は救われるのです。神は私達の行ないに関係なく愛して下さいます。聖書にこのような言葉があります、「私達がまだ罪人であったとき、キリストが私達のために死んでくださったことにより、神は私たちに愛を示されました」(ローマ5:8)。私が何か良いことをしたから、神は愛されるのではありません。私達が悪を行っている罪人の時に私を既に愛して下さっているのです。神は愛の方です。その愛の力は私達が敵を愛そうとする時に働きます。神は少しずつ日ごとに働かれます。そこにこそ私たちは希望を持つことができるのです。
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