説教題:「人のためになる批判」
聖書:マタイによる福音書 第7 章1~6節
説教:斎藤喜樹 師
賛美:新聖歌2 「たたえよ救いイエスを」1,2,3 新聖歌340「救い主イエスと」1,2,3
主イエスは人を裁くなとおっしゃいました。人を裁かないで生きることは、私達の生活を豊かにし、人とのかかわりを潤いあるものにするものです。それは神さまからの知恵です。イエス様の言葉は全く実践的です。あなたが人を裁いている言葉はそのままあなたに帰ってくると言われます。実際、相手は同じようにあなたを裁いてくるでしょう。
裁くとは自分が上の目線になって人を断じることです。大事なことは相手を裁く私達の心そのものが変えられることです。相手をさばくというのは、私達の心に染み付いた癖であるかもしれません。イエス様は私達にヒントをお与えになられます。他人の目のおが屑をどうにかしようとする前に、自分の目の梁に気がつきなさいということです。自分の事に気付くことが、自分が変わっていく大きな転換点になります。
しかし、どんなに強調しても強調しきれないことは、私達は自分では自分の梁にはなかなか気づかないという事です。私達は自分の体だけでは、自分の顔を見ることができないように、自分の問題点が分かるのは非常に難しいのです。自分の顔を見るためには鏡が必要であるように、自分の目の中の梁を見せてくれる鏡とは、人の言葉かもしれません。神様は様々なことを通して私達の梁を見せてくれます。ですから人の言う事は聞かねばなりません。私達は人の前で、そして何よりも神の前で自分の心を素直にオープンにしている事が必要です。そういう経験を通して、私達の心は変えられていくのです。
イエス様は、人の目のおが屑を取りのける時は、まず自分の梁を取りのけてからと言われました。梁というのは自分の落ち度とも解釈されますが、自分の落ち度が全くなくなってから人に忠告しろという事でしょうか。それならば、私達はいつまでたっても人に忠告することはできません。けれども聖書は私達に互いに勧告、訓戒しあうように伝えています。私達は自分のことを棚に上げて人に忠告するのでしょうか。私達は裁くことなしに、人のために忠告することが出来ます。相手に批判する必要がある時に、その人のために祈ることがまず先です。つまり相手の幸いを真に思う事、つまり愛する事です。そしてこちらが相手に寄り添おうとしていること、助けたいことを伝えることです。相手の悪い事を指摘して去るというヒットエンドランではなく、あくまでもその人に寄り添おうとする態度を保つことです。自分が変わり、相手が変わるのは、時には時間がかかります。けれども、そのようなあなたの祈りに聖霊は働かれます。裁くなという主イエスの言葉は私達が変えられ、愛していくことを学んでいくメッセージなのです。